2010年12月30日木曜日

ビバルディ 冬 (イムジチ)


この曲を聴いていると心が休まるのは何故だろう。年の瀬に考えてみると、冬の訪れと共に寒さも厳しくなってくる時期に、一番の暖かさは何だろう。それは暖房であるが、この曲の終始聞こえているバイオリンのピチカートが、暖炉にかかっている大きな鍋で、スープがコトコトと煮詰まっている姿を想像させる旋律なのです。だから自然と体が温かく感じて冬の室内の快適な中で、ロッキングチェアーに座って時を過ごしている。そんな姿の環境は、自分にはありえないとは思うのですが、冬だから寒い曲を創らなかったビバルディーは偉大だと思います。

2010年12月29日水曜日

お正月 (唱歌)


なんだかんだと更新していたら、もうこんな時期になってしまいました。恐らく今日辺りが仕事納めで、明日から年末年始の休みに入るのでしょう。子供の頃には正月が待ち遠しくてしかたありませんでした。何と言ってもお年玉が一番の楽しみでした。だけど、残念なのは我が家の場合、半分しか貰えなかったのです。母が言うには、向こうにも子供が居るのだから、その分お返しをするのだから、本当は親から貰っている様な物だと、実に現実的な解釈をさせられて、楽しみが半減しました。でも今でもお正月は大好きです。その母も今年の11月に亡くなったので、来年の正月は今までで一番寂しい正月になるでしょう。

2010年12月28日火曜日

帰り道は遠かった (チコとビーグルス)


次の一発屋グループはこのグループです。この曲の作詞はやっぱりマルチ作家の藤本義一さんでした。彼のマルチぶりは有名でしたね、11PM という深夜番組の難波担当というか、大阪のパーソナリティでしたよね。ちなみに東京のパーソナリティと言えば、あの大マルチタレントの大橋巨泉さんでした。遊ぶ事なら人一倍の多才な人物です。私なんかはとてもスタミナが持ちません、何をやるのも躊躇してしまうし、失敗が恐いので初めからやらない。このへんで大きく差がつくのでしょう。パーソナリティになるにはパーソナルコンピューターのように、マルチな仕事をこなせなくてはいけないようです。

2010年12月27日月曜日

ハチのムサシは死んだのさ (平田隆夫とセルスターズ )


一発屋のグループと言えば、こんなグループが居たのです。御伽噺のような物語を唄って大ヒットしたのですが、次の曲が続かないなで、一発屋でした。この曲の歌詞は、俳優の内田良平さんが作詞したもので、見かけに寄らずロマンチストだったという驚きが話題になったのでした。この当時、異色の作詞家が多くて、本業をもっていながら作詞もするという、マルチな才能の人達が多く登場した時期でした。私も作詞の勉強をしていましたが、マルチな才能は無かったみたいで、残念ながら今だにお呼びがかかりません。

2010年12月24日金曜日

サハリンの灯は消えず (ザ・ジェノバ)


ロシアの雰囲気を唄う歌謡曲といえば、この曲を思い出しました。本来はジェノバではなくクーガースというグループの曲なのですが、こちらの方が売れたので、youtubeでもこちらしかありませんでした。クーガースは異色なグループで全員スカートをはいていました。ポリシーとしてはスカートではなく、スコットランドの男性がはくキルトと言うものらしいのですが、何か意味わかんない。それはともかく、わたしはその頃、そのレコード会社に出入りしていたものですから、何度か見かけた事があり、応援していたのですが一発屋で終ったようです。

2010年12月22日水曜日

ポーリュシカ・ポーレ (仲雅美)


突然ではありますが、何日か前に投稿したイブモンタンの枯葉を聴いていたら、前奏に聴いた事のあるメロディーが流れていました。何の曲か思い出せずにいたのですが、今日やっと思い出したので割り込んで投稿します。それはロシアの軍歌で”ポーリュシカ・ポーレ”という曲でした。むかしは歌声喫茶なる場所がありまして、お客が声を出して合唱するという、娯楽があったのです。曲はロシア民謡が多くてトロイカ、カチューシャなどのマイナーメロディーが多くて、若者の婚活場所でもあったのです。この曲はその時代では無いのですが、なぜか当時を思い出させるロシア独特の旋律ですね。

2010年12月21日火曜日

心もよう (井上陽水)


エレキギターをはじめた頃はパイプラインのイントロから入りましたが、陽水さんのコピーをはじめた頃はこの曲のイントロでした。どこか似ていて別物という不思議な曲でもあります。同じメロディーの繰り返しから始まるのでそんな感じがしたのでしょう。この曲を聴いてから陽水ファンになった人も多いと思いますが、それまでは気味の悪い存在でした(失礼しました)でも、こんなセンチメンタルな曲を創る人とは知らないで、外見で見ていた自分が恥ずかしい限りです。それからと言うもの、熱烈なファンになり、ほとんどの曲を聴きました。

2010年12月20日月曜日

夏まつり (井上陽水)


どうして寒い冬なのに夏祭りなのか、と思うでしょうが、冬の雪のなかでキンキンに冷えた生ビールを飲むのと違い、音楽は季節に関係なく季節を感じる事が出来るのです。夏祭りで金魚すくいをしたり、ヨーヨー取りをしたり、この唄を聴くとあの頃に還れるのです。曲が終ると現実に戻ってしまいますが、音楽の流れている時間だけは夏です。私が子供の頃は、夜店の明かりの中にカーバイト照明というのがありまして、やたらと煤が出て顔が汚れるのです。将棋屋さんとか占い師が良く使っていました。色んな変った店があったんですよ、おもしろかった。

2010年12月17日金曜日

夏休み (吉田拓郎)


高校生の夏休みに同級生のMが、海で死んだ。奴はかなりの悪ガキで、不良グループの一員だったが、クラスの人間には悪い事もしないし、特に女子高生には人気があったようだ。彼の葬式にクラス全員で参列したのだが、女子高の生徒が沢山来ていたのには驚いた。我々は男子校で女子高なんか憧れだったのに、あいつは何処であんなにナンパしていたのか不思議だ。恐らく、彼女達も、もしかしたら不良グループの仲間かも知れない。彼女達の服装がそれっぽかったので察したのだ。人間どんなグループでも、惜しまれて死ぬのはある意味感慨深いものがある。

2010年12月16日木曜日

あー夏休み (チューブ)


夏休みというと、私の場合は軽井沢と言いたいところですが、少し離れた下仁田と言う所に思い出があります。東京で生まれた私には田舎という場所がありません。そこで、母の姉が暮らしていた下仁田へ、夏休みを利用して小学生の兄弟3人だけで十日くらい遊びに行ったのでした。朝は早くから橋の上で、町の人が集ってラジオ体操です。下の川は泳げるくらい綺麗で、魚を捕ったりして遊びました。夜になると学校のグランドで映画大会をやるので、毎日が楽しくて最高でした。帰る日の前日に浅間山が噴火して、下仁田にも火山灰が降りました。その火山灰を集めて学校の宿題に使ったのを思い出します。

2010年12月15日水曜日

夏のクラクション (稲垣潤一)


この曲は夏の曲なので、寒い季節には暖房代わりになるかも知れません。海岸沿いをドライブするのに、とても良いBGMだと思います。今はもう行かなくなりましたが、鎌倉に憧れの人が住んでいて、その人の居た街を歩きたくて月一程度の割合で行っていました。その人は女性ではなく男性です、と言うのも、彼はレーサーで、トヨタ自動車のテストドライバーでした。その彼は福沢幸雄さんでした、テスト中に死亡してからというもの、何かに取り付かれた様に鎌倉通いが始まったのです。その時、この曲はありませんでしたが、この曲を聞くと、あの当時の自分を思い出すのです。その後私も自動車メーカーのテストドライバーになりました。

2010年12月14日火曜日

クリスマスキャロルの頃には (稲垣潤一)


クリスマスキャロルとは聖歌の事のようですが、私の少年期に、教会の日曜学校というのがあって、そこに通う友人から誘われて何度か行った記憶がある。朝早くに、浮浪者が来るのでスープとパンをあげたり、聖書の勉強をしたりしました。その友人はイスラエルのほうへ修行に行き、今では川越のほうに教会を造り、牧師として活躍していると、風の噂で聞きました。イスラエルから帰国した当時、彼の母親から頂いたお土産のキリスト教の掛け軸は、何処にしまいこんでしまったのか行方不明です。あの頃一歩間違えていたら私もキリシタンだったかも。

2010年12月13日月曜日

クリスマスイブ (山下達郎)


イブモンタンから此処に来ました、もうすぐ時期ですからね。♪雨は夜更け過ぎに雪えと換わるだろ♪、こんな天気予報みたいな唄い出しですが、JRのコマーシャルと言う事でスポットで散々ながれるのだから絶対ヒットする。イメージビデオも相俟って、ヒットしないわけが無い。こんな曲って幾つかありますが、こんな状況の人生を送ってる人間ていうのも居そうですね。良い家に生まれてよい教育を受けて、エリートコースを歩んで。なんと羨ましい人生なんでしょう。それでも、私の場合は私の父と母でよかったと心から思っています。

2010年12月10日金曜日

枯葉 (イヴ・モンタン)


この季節が憂いを感じるのは、この枯葉のせいである。青々と栄えていた命が、朽ちて落ちてゆく姿を見て、悲しくない人は居ないだろう。みんな自分の人生に照らしてみるから、枯れて落ちる葉を死と考えるのだろう。だけど、冬を乗り越えるために葉を落とし、春が来ればまた目を出して成長するプロセスのシーンとして考えれば、枯れ葉は悲しい現象では無いし、人の死とは全くの別物で、悲しがる必要もないのである。枯れ葉よ絶え間無く、と言うフレーズはやっぱり悲しい響きを持っているが、動物の死と植物の葉っぱの死は意味が違うのだ。

2010年12月9日木曜日

愛の賛歌 (エディット・ピアフ)


愛という大きなテーマを謳い上げたピアフも、もうこの世にはいない。そして新しい愛が生まれて消えてゆく。人の命の何と儚い事か思い知るこの季節。今の今までそこに居た人が、死を迎える事により、もう二度と逢う事が出来ないし、この言葉に反応する事も無い。生きてその事実を受け入れなければならない、何と不条理で悲惨な事か。いっそ一緒に旅立てたらと思ってしまうほど悲しい事実を付き付けられる。愛とは何ぞや、愛の終る時の悲しみは、何と重い事でしょう。後悔しない人生なんかは絶対にない、人生は愛と後悔の繰り返しである。

2010年12月8日水曜日

愛の願い (ミッシェル・ポルナレフ)


愛の、とくればこの曲も好きでしたね。ポルナレフが続いたので今度は違う角度から攻めますが、今回はこの路線でいきましょう。見た目と曲のギャップが大きいこの曲は、しみじみ聴きたい曲です。私の場合、青年から大人に換わる一時期にこの曲と出会いました。季節で言うとちょうど夏が終わり、秋が訪れる頃、そんな心境の時に聞いたのです。愛と恋とがこんなにも両極にあるのを思い知らされた、恋一辺倒の青年期と、愛の為に諦める事もあるのだと言う事を知る成熟期。そしてその時期も過ぎて、今は愛する人を見送る時期に来たようだ。

2010年12月7日火曜日

愛の休日 (ミッシェル・ポルナレフ)


この人の裏声は魅力がありますよね。最近容姿が良くなくても、唄が抜群に上手ければ、認められる世の中になってきましたが、昔はそうではなかった。唄や声が良くても、見た目に感動がなければ認められませんでした。ですから髪の毛や化粧とか眼鏡とか帽子や衣装で、とにかく人目を引いたのです。俗に言うビジュアル系というやつです。歩ルナレフやボーイジョージなんかはそちら系でした。でも一度世に出てしまえばこっちのもの、あとは唄や曲で勝負です。実にいい曲を歌っていましたね。だから後半になってファンになりました。

2010年12月6日月曜日

シェリーに口づけ (ミッシェル・ポルナレフ)


この軽快な曲を知らない人はいないと思います。ポルナレフを最初に見たときは、ただのいかれたアンちゃんかと思いましたが、以外と曲がいいので聴いていました。この曲はコマーシャルに使われたりお店のBGMなんかにも流れていて、なんとなく元気が出て来るような旋律ですよね。私の友人のあいだでも人気がありましたし、この手の曲を聴いていると芸術家っぽい感じじゃないですか。だからカッコつけて聴いていたのもありますね。髪の毛を虹色に染めたりして、日本の作家で志茂田カゲキなんていう人も居ましたけれど。

2010年12月3日金曜日

シェリー  (九重佑三子)


田辺さんと言えば奥様は九重祐三子さんですよね。だいぶ昔ですが、友人に誘われて彼女の舞台を観劇したことがありました。場所は教育会館だったと記憶していますが、定かではありません。友人というのは、元祖ジャニーズのリーダーであった真家宏美さんでした。幕が降りると楽屋へ行き、劇の出来を絶賛して、私を彼女に紹介してくれました。何故か新人マネージャーとしてですがね。ただの友人としてだとカッコつかないらしく、にわかマネージャーとしての紹介でした。化粧台のまえで、メイクを落とすその姿は、お姫様のようでした。もともと私はあまり芸能界には疎いので、舞台裏の楽屋などは入った事が無いのです。いい勉強になりました。顔の売れた芸能人は、こんな場所に来ても顔パスで、その時は凄いと思いましたが、それはそれで苦労があるようですね。

2010年12月2日木曜日

空港一人ぽっち (田辺靖雄)


空港で思い出す曲と言えば、この曲が衝撃的で羽田詣でをしたのを、飛行機を見る度に思い出します。この曲のドーナッ版のレコードを持っていましたが、いつ無くなったのか記憶にありません。この当時の歌詞に良く出てくるフレーズで、エトランゼ、と言う言葉がありますが、これは英語のストレンジャーと同じではないかと思います。一人の旅する人をこう言うのだと理解します。いま私がやっている旅のスタイルが、まさにエトランゼではないかと感じます。言葉の雰囲気からフランス語ではないのかと思っていますが、調べた事が無いので解りません。そう思うと、かなり昔から一人旅に憧れていたのだと思います、そして、いま実践している自分を見ると、今の自分が、あの頃の自分が、年をとった自分なんですね。

2010年12月1日水曜日

ジェット最終便 (朱里エイコ)


さあ、通常の進行で更新していきましょうか。たしか、空の終列車、で止まっていましたね。そのものズバリの曲がありました。”ジェット最終便”です。これは彼女の大ヒット曲”北国行きで”の空路版ですね。二番煎じの曲としては当然、そんなにはヒットはしませんでしたが、彼女のファンとしたら、都会的な彼女の別れ歌としては、こちらのほうがマッチしていたように思います。私もこの頃は外国かぶれしていまして、ニューヨークの町並みやパリの市街地のイメージにどっぷりで、日本の良き景色や建造物には興味がありませんでした。ところが、現代では、日本の田舎の風景に憧れた、日本かぶれの外人さんが、はっぴにはちまきで、村の神輿を担いでいるではありませんか。いったいどうなっているんでしょうか?。

2010年11月30日火曜日

ラマンマ (シャルル、アズナブール)


母の死を乗り越えて、また歩き出しましょう。いつまで悲しんでも母は戻りません。かえって母を悲しませるだけです。この曲と同じように悲しみを乗り越えて生きて行く事にしましょう。アズナブールのこの曲を聞いたのは二十歳の頃でした。その頃の私には、何となく解る程度で、本当の悲しみは感じていませんでした。母も元気で、私はいつも母と一緒でした。山男の父は、母をほったらかしにしていて、父の換わりに私が、母と買い物をしたり、旅行へ行ったりで、まるで、親子で姉弟のように生きてきました。父の死後、十年以上、母との二人暮しのようなものでした。兄弟も近くに居るのですが、日常は二人暮しで、何時か来る一人暮らしを恐れていました。そして、その時がやってきたのです。この曲の本当の悲しみが今わかりました。

2010年11月15日月曜日

空の終列車 (スプートニクス)


もうひとつ”空の終列車”と言う曲ですが、タイトルから想像すると、これは銀河鉄道ではないでしょうか。太古の昔から、羊飼いは夜空の星を眺め、色んな事や物語を創造したと聞きますが、世界共通なのは空です。時間が来れば地球の裏側の空が巡るのです。ましてロケットが人工衛星を飛ばす時代背景では、鉄道の旅が一級品だった頃の発想ですね。聴くところによると、あのオリエント急行やシベリア鉄道も無くなるとか。時代によって、見る夢も変ってくるものです。私たち昭和の人は汽車が夢にある時代なんです。

2010年11月12日金曜日

最愛の母が死亡しました。

本日午後一時四十ニ分に母が息をしなくなりました。明日から少し投稿を休みます。

霧のロザリア (ザ・スプートニクス)


またまた忘れていました、スプートニクスはひとつ思い出がありましたよね。ビートルズのドラムス、リンゴーが休んだ時、ピンチヒッターでスプートニクスのドラムスが交代したんです。その時のブーイングといったら可哀相なくらいでした。一度イメージが固まると、強烈な違和感を感じるのでしょうか。GSブームの時にもタイガースのトッポや、ドリフの荒井注なんかもそうでした。グループがひとつの人格のようになって、その髪型や鼻の形が変るように、メンバーを変えると違うグループになってしまうのでしょうか。

2010年11月11日木曜日

フィードバックギター (寺内タケシ)


この曲も、本流はクリアーエレキにあると思います。勿論ラフマニノフやショパンのように、我が技量を誇示する為に造られたとしても、超絶という言葉が付いている曲は素晴らしい。何時の頃からフェイズシフターなる装置が横行したのでしょう。ガンガン掻き均しても上手に聞こえてしまう、残響がヒステリックに鳴り響き、狂気を引きずり出す。確かに、それもひとつの世界だ、区切ればそうなんだけれども、清い音には清い心が宿るようなきがする。理屈っぽい事は嫌われるので、この辺にしておきましょう。

2010年11月10日水曜日

Valoa ikkunassa (The Mustangs)


忘れていました、ムスタングスのようなクリアーサウンドは、気持ちを落ち着かせ、鎮静作用があると学会でも定評があるのです。ヘビメタの様な歪んだ音は、興奮を招き犯罪につながるケースが多く、ドラッグにも関係する効果があるそうです。そう言われれば、ムスタングスの曲を聞いたから暴れたくはなりません。音楽にもお酒やドラッグのような効果があるのですね。そうなると、私の音楽趣味と言うか昭和の人間は、攻撃から防御に変化したのでしょうか。第二次世界大戦の終結が、昭和を二分したのです。

2010年11月9日火曜日

霧のカレリア (スプートニクス)


そのロシア民謡がこの曲の間奏に入っています。我がバンドでも、チークタイムを設けて、その時の一曲として練習しました。しかし難しいのは、アンプやエフェクターの設定が、ビートのある曲と違うので、設定変更の時間稼ぎに、司会に引き伸ばしをさせたのでした。この曲のカレリアとは、旧ソビエト連邦の共和国の名前ですが、哀愁のカレリアと言うタイトルもある、幾つかの東ヨーロッパのバンドがリリースしています。でも日本における元祖は、このスプートニクスです。ちなみにスプートニクとは、初めての有人飛行した人工衛星の名です。

2010年11月8日月曜日

二つのギター (ザ・ムスタングス)


ムスタングと言えば、まずアメリカの車を連想します。次にエレキギター、そしてバンド名です。このバンドに思い出があるのは、なぜかロシア民謡を彷彿させるような、クリアーでエコーの効いたエレキサウンドが魅力です。いまはエレキギターというと、ヘビーメタルの様なフェイズのかかった歪んだ音が良かれと言う時代ですが、昭和のエレキサウンドの魅力のひとつに、深くリバーブの効いた、凍りつくような透き通った音質の、インストルメントがあったのです。私はこんな音が好きでエレキを弾こうと思ったのです。

2010年11月5日金曜日

気絶するほど悩ましい (チャー)


フェンダー社製のギターであまり出ていなかったモデルを、この人が人気機種にしたのを憶えている。それはムスタングと言うモデルで、彼が使うまでは知らなかった。実はバンド活動にあたって、私が購入したのはムスタングでした。やっぱり彼の影響でしょうか。当時、丸井のクレジットが全盛の頃、10回払いで購入したのを思い出しました。今より昔はフェンダーのギターは高かったんです、25万くらいしたかな。今ではケースの金具も錆付き、ほとんど開かずに部屋の片隅に眠っています。黒でガードが白のツートンなので、部屋のディスプレー二くらいはなるのでしょうが、今更恥ずかしい気もあります。

2010年11月4日木曜日

ブラック・サンド・ビーチ~ (加山雄三&ザ・ベンチャーズ)


エレキギターで隠れたブームを巻き起こした機種がある。ベンチャーズが日本に持ち込んだモズライトである。形はすこしゴッツイ感じで、一枚板のボディーと言う感じではなく、バイオリンのように中心に盛り上がった感じだ。見るからに重そうで重厚感があるモデルである。特に、加山雄三さんは大のお気に入りで、自分の名前の付いたモデルを使用している。”エレキの若大将”を観てから私もファンになり、アマチュアバンドをしていた頃にも、レパートリーには彼の曲が何曲はある。中でも”夜空の星”は走りすぎて”夜空の流れ星”になっていた。

2010年11月2日火曜日

チェンジ・ザ・ワールド (エリック・クラプトン)


エレキギターでおそらく一番おおく使われているモデルはストラトキャスターでしょう。そのデザインと華麗なる嘆きのサウンドは、右に出る機種はないでしょう。本家のフェンダー以外にも、何処のメーカーもレプリカを発売していて、いま問題になっている中国のパクリどころではない。エレキギターといえばストラト、と言えるくらいそのデザインは世界を独り占めしている状態です。私が初めて手にしたテスコ社製の、ピックガードにストライプがある玩具みたいなエレキと違い、名ギタリストは必ず持っています。中でもクラプトンモデルは、ヘッドに煙草が留められて、煙草を吸いながら弾けるモデルもあるのだ。

2010年11月1日月曜日

哀愁のヨーロッパ (カルロス.サンタナ)


哀愁とくればヨーロッパですよ、検索しても真っ先に出てきます。なぜサンタナに来たかというと、エレキギターです。彼の愛用しているのはレスポールと言う型で、ギター弾きとしては二分されるほど人気を分けた代物です。古くはジャズギターやSGタイプというのも人気でしたが、今はこのレスポールとストラトキャスターの二機種が主流です。このレスポールをこれだけ人気者にしたのはサンタナでしょう。彼の作品は、たとえヨーロッパの名前が付いても、ラテンの雰囲気が流れています。最初にヒットした”ブラックマジック~”が日本でうけた頃、わたしはギター青年でした、懐かしくて涙がでてきます。

2010年10月29日金曜日

哀愁のカサブランカ (郷ひろみ)


モンローウォークから郷ひろみさん、と強引(goin)に続きますが、この曲が抜群にうまい知人がいまして、その事を書きます。よく通ったパブスナックのマネージャーで、見た感じは郷さんとは違いますが、彼のほうがこの曲を唄いこなしている気がします。彼は東北から歌手になりたくて状況して、夢破れ現在に至る。と言う経歴ですから上手いのはあたりまえで、彼がステージで唄うとショーを見るようでした。その店が終わり、流れで別の店に行くと、女性客が注目して、我等はとりまきになってしまうくらいです。あの彼、今何してるんだろうな?、そんな思い出の人達と、一度でいいから同窓会みたいに逢いたい気分です。

2010年10月28日木曜日

モンロー・ウォーク (南佳孝)


南つながりで強引にここに来ました。むかしS社の芸能担当記者だった友人から、サンプルレコードをいただき、意見を聞かれた事がある。それが発売前の南佳孝さんのLPで”夏の女優”だったと記憶しているが、間違いだったらごめんなさい。その時の印象はそんなにいいものでは無かったので、あまりいい感想を言わなかったとおもいます。しかし、2、3ヵ月後、あれよあれよというまに別の曲がヒットして、私の先見の無さを露呈してしまいました。それからと言うもの、彼のファンになり、罪滅ぼしをしているのであります。気軽に評論なんかするもんじゃありませんよね、自分のことも知らないのに。

2010年10月27日水曜日

夢一夜 (南こうせつ)


かぐや姫のリーダーは、南こうせつさん、ですが、むかしは高節さんと漢字だったのですが、地方の年寄りに南高節(なんこうぶし)を唄ってくれと言われ、平仮名にしたそうです。嘘のような本当の話なんですが、いい声してますよね。この曲はCMに使用された曲なので、いつものような貧乏臭さはなく、豪華絢爛に仕上がっています。この曲が流れた頃には、私の同棲生活も破綻をきたし、元の実家暮らしに戻っていましたし、気持ちも立ち直って元気も出て来た頃でした。人は失恋したりしても、立ち直れる強さがあるのです、いい思い出にして、あの恋は綺麗な箱にいれて取って置きましょう。いい時代が来るまで。

2010年10月26日火曜日

神田川 (かぐや姫)


そして、その伊勢さんが前に居たグループの”かぐや姫”の大ヒット曲”神田川”です。この曲の中身と良く似た暮らしを、私もしていたことを思い出します。舞台は”高円寺川”ですが、川の上が暗渠で蓋をされて道になっていましたが、その脇にあった長屋の4畳半です。中野駅からそこまで徒歩十五分くらいで、途中にある銭湯で、いつも待たされたのは私でした。女性のほうが長いんですよ普通はね。隣のコインランドリーで洗濯を回収して待つのです。愛の巣は四畳半ですので台所は無く、銭湯の帰りにコロッケ買って帰ります。そんな暮らしでも彼女さえ居れば良かった、居てくれることが望みでした。それも今は遠い昔です。

2010年10月25日月曜日

22才の別れ (風.伊勢正三)


なごり雪の作者で知られる伊勢正三さんは、正に名曲”22才の別れ”を創りました。この頃はカラオケ全盛期でもあり、よく十八番として唄ったのがこの曲でしたね。それに、ギター弾きとしては、この曲のイントロでフォークギターで爪弾かれる旋律は、美味しい所でもあり、スナックなんかでギターの置いてある店では、このイントロを弾くだけで拍手が沸くような、お涙ものの曲なんです。若い頃、誰でも経験したことのある悲しい別離を、誰しもが自分の淡き恋に置き換えて思い出したのが、この曲のヒットした要因でしょうか。

2010年10月22日金曜日

なごり雪 (イルカ)


そして何年たっても変らない風貌で、いまだにフォークギターを携えて、この歌を大切に唄っている姿には感銘します。私が、20代の終わりに、同棲していた彼女と破局した時、街には”なごり雪”なるものが降っていました。歌の文句ではないですが、あの時の感情は似たものがありました。今は彼女にも、その時かかわった友人などに感謝の気持ちでいっぱいです。あんな物語の主演が出来て、そして私の人生に花を添えてくれた出来事に、心から感謝します。結果はどうでも、思い出も無い人生なんて、つまらないですからね。

2010年10月21日木曜日

百万本のバラ (加藤登紀子)


ギターを弾き語る女性アーティストに彼女が居ます。純粋フォークと言うよりも少しシャンソンが混じったイメージですが、彼女の恋愛が学生運動で投獄された、学生運動の指導者との獄中結婚などが話題となったのです。彼女の歌には反戦歌的なものはないのですが、その人生や恋愛などの姿が革命のイメージがあったのでしょう。しかし、この曲は外国の曲を訳詩した曲ですが、百万本は大変な数ですよ。バラが一本一円で計算しても百万です、百円でしたら百倍ですよね、貧乏な絵描きの財産ではどうか。それに、窓から見える場所に、一晩でバラを轢き積めるのは神業です。夢を壊すわけではないが、少し大風呂敷広げすぎですよね。

2010年10月20日水曜日

ドナドナ (ジョーンバエズ)


この歌もジョーンバエズだったのですね。まだ青年の頃、動物が好きでずっと犬を飼っていた私ですが、永年飼っていたコロと言う犬が死にました。その時この歌がヒットしていて、子牛が売られてゆき殺される、なんて歌を聴いたら泣けるのは当然です。いろんな人がカバーしていたのでバエズの曲だった認識がありませんでした。それに内容も薄らいで、”500マイル”と言う歌とごちゃ混ぜになり、子牛が500マイルも遠くに売られていくような錯覚をしていました。記憶と言うのは実に曖昧なものですね。

2010年10月19日火曜日

思い出のグリーングラス (ジョーンバエズ)


この曲は森山良子さんもカバーしている通り、本家の女性フォークシンガーであるジョーンバエズの名曲です。この曲などを唄いながらギターも弾くスタイルは、この人が始まりのような気がします。それまでは映画の中でオードリーヘップバーンが、窓辺で”ムーンリバー”を唄うシーンはありましたが、ステージでギターを弾のは驚きでした。その後日本でもギターの弾き語りでデビューした女性が幾人かいましたが、それでもギターの女性は少なく、キーボードのほうが多かったようです。ギターは男が、抱きしめたくなるような形をしてますからね。

2010年10月18日月曜日

この広い野原いっぱい (森山良子)


森山良子さんといえば、この曲でブレークしたのでした。その当時、フォークブームであってもアコースティックの硬いミドル弦は、女性の力では押さえきれず、弾き語りなどいませんでしたが、彼女はそのフォークギターを弾きながら唄ったので、素性を確かめると、あのグループサウンズで活躍していたスパイダースの、ムッシュかまやつ氏の従妹だったのです。彼の父親もビックな歌手でしたから、音楽には恵まれた環境だったのですね。女性のフォークシンガーでは、日本の先駆者でしょうか。

2010年10月15日金曜日

今日の日はさようなら (森山良子)

その美ヶ原のキャンプファイヤーで、最後に大合唱したのは”今日の日はさようなら”でした。この高原ホテルのオーナーは朝には自然教室なる早朝散歩や、夜はキャンプファイヤーとか、大広間でスライドショーなどを開催して、季節ごとに楽しませてくれるのです。ちなみにオーナーは小沢さんといい、その奥様は写真家でもあると言う多才な一家なのです。夏の日の高原で、満天の星の下、♪いつまでも絶えることなく友達で居よお♪と言う大合唱で夜が更ける、なんと思いで深い一日でしょうか。

2010年10月14日木曜日

ジェンカ (坂本九)


大勢で揃って曲にあわせると言えばジェンカもそうでした。元歌は”レッツ.キス”と言うのだが、列になって進んでゆくダンスの名前がジェンカらしいのです。私が兄弟の家族達と美ヶ原に一泊した時のことです。ホテルの庭でキャンプファイヤーが行われ、そこでジェンカを、半ば強制的にやらされたのですが、はじめは知らない人同士で照れていたのですが、続けて居る内になごんで、曲を3回も繰返していました。夏の高原で、真夏の夜の夢でしょうか。

2010年10月13日水曜日

マイム・マイム (イスラエル民謡)


フォークダンスのようなもので、これも思い出のある曲でしたよね。マイム,マイムと言いながら大きな輪になって回るやつです。キャンプなんかでやるといいのですが、残念ながら運動会くらいしか記憶がありません。マイム,ベッサッサと言う所で輪っかが小さくなるのですが、すぐにまた広がって元に戻るところで、みんなで押し競饅頭状態になって先生に怒られたことがありました。他愛なき子供時代の悪戯が、誰の合図も無いのに一せいに行われると言う子供の心理、そんな感情が、今は何処に消えたのでしょか。

2010年10月12日火曜日

オクラホマ.ミキサー (フォークダンス)


ダンスパーティーといえば此れもダンスパーティかもしれませんね。低学年か中学の頃、この時間の憂鬱だったことを今でも忘れません。女子と手を繋げるなんて、今思えばこんなチャンスはありません。現在の年齢で勝手に手を握ろう物ならば、この人変なんです、と言って変なおじさんにされてしまいます。中学校で女子が異性と知った頃、恥ずかしくて手を握るなんて出来なくて、でも先生には注意されるしで、本当に憂鬱でした。今の私で体だけ当時のままだったら、きっと鼻の下を長くして、チューリップ顔してるでしょうね。変な妄想はこれ位にしても、当時はそれくらい純情だったって言うことですかね。

2010年10月8日金曜日

アンチェイン・マイハート (Ray Charles Tribute)


アンチェインで思い出しました。高校生の頃、不良グループのあいだでパー券というのが横行していました。不良の資金稼ぎで、オバケと言って実際にはパーティもやらずに、パー券だけを売りつけられる偽物も多かった中で、本当のパーティもあったのです。私が覚えているのは、秋葉原の一角のビルの2Fだったかで、エレキバンドが2組入ったダンスパーティに行った思い出です。この時ばかりはVANジャケットからJUNで固め、女子高生はミニドレスで、ジャパニーズ,グラフィティを繰り広げた、その思い出の曲がこれだったのです。

2010年10月7日木曜日

アンチェンド・メロディー (ライチャス・ブラザーズ)


この曲もかなり古い曲であるが、映画”ゴースト”で挿入歌として使われた為にリバイバルヒットしたので、再び脚光を浴びる事となった。映画を観た人も多いと思うが、殺された恋人が残された彼女を、ゴーストになって守る姿に感動したでしょう。そして、黒人の女性霊媒師の体を使って自分が側に居る事を知らせる、あの感動は鳥肌が立つほどでした。愛と言うたった一文字で表す感情が、こんな奇跡を生むのですから愛は素晴らしい。覚めた眼で見れば、映画の中の劇だと言ってしまえばそれまでですが、この歌が真実だと訴えているような気がします。

2010年10月6日水曜日

煙が眼にしみる (プラターズ)


当時の音の良くないラジオでも、この人達の歌声は素晴らしかった。代表曲は”オンリーユー”ですが、私的にはこの唄が好きだった。恐らく現代では環境問題になりそうなタイトルですが。その当時の大人アイテムのひとつ、煙草とお酒のある風景で、恋人同士がチークダンスの時に、嬉しくて涙を流す場面で、照れくさいので煙草の煙が眼にしみる、と言うシーンだろうと思う。なんとホノボノとした瞬間だろう、私にはとっくの昔に憶えた感覚ですが、恋をするという、若いときには何でもない事が、今ではとってもいとおしいのです。

2010年10月5日火曜日

あなたの肩に頬うめて (ポールアンカ)


音の悪い昔のラジオがあの頃の思い出に誘ってくれるのです。今では中国製のラジオだって、あんなダサイ音は出しませんが、そんな音でもポールアンカは人気者だったのです。とくにこの曲はポケットラジオから聞こえるような雰囲気で、映画”アメリカン.グラフィティー”を観た人なら、あの一場面を思い出すでしょう。ガソリンを垂れ流しているような当時のアメ車に乗る若者の愛した、カーラジオから流れるこの曲を聴くと、なにか身震いを憶えるのは私だけでしょうか。1960年を過ごした人間なら、同じ感覚を憶えるでしょう。日本では、その頃が昭和のど真ん中だったのです、カムバック昭和です。

2010年10月4日月曜日

恋の片道切符 (二ール,セダカ)


恋の〇〇〇と言って真っ先に頭に浮ぶのは、わたしの場合は”恋の片道切符”なのだ。1960年代のアメリカンポップスを代表するような曲で、アメリカの青春ソングが日本にどんどん侵入してきた60年は、トランジスタラジオの普及と同年代であった。真空管のラジオから、電池式のポケットラジオの普及で、歩きながらの音楽鑑賞が可能になったのが昭和だった。余談ではあるがゲルマニュームラジオというラジオは、電池もいらなかった。音の悪いのは、技術的に未熟だったのか、そんな時代である。今となっては、音の悪いのが当時の味と言うことで、真空管や、ポケットラジオの音は、1960年代を思い出す。

2010年10月1日金曜日

恋の季節 (ピンキーとキラーズ )


この曲は、ワンフレーズ’夜明けのコーヒー’というのを流行らせた曲でした。わたし達、新宿酔っ払い集団が、バンドを始めた最初の練習曲もこの曲でした。音合わせの段階でふざけて弾いたのがピンキラでした。それと、青山で深夜にナンパした女の娘が、ピンキラの解散後、メンバーのパンチョ加賀美さんと、ユニットを組んだ事がありました。その名も、パンチョ加賀美とグッピーズ、という名前だったかな。とにかく、この曲には思い出が幾つもあって、この曲を聴くたびに、何となく若き日の幻影がちらつくのです。

2010年9月30日木曜日

若い朝 (日野てる子)


朝をテーマにしたドラマと言えば、モノクロームのテレビドラマで、”若い朝”と言う番組がありました。主演は日野てる子さんだったと思いますが、歌唱も彼女だったので、思い違いが無ければそうです。日野さんはハワイアンの歌手だったので、綺麗な裏声が素敵でした。ドラマの内容は、どっかに吹っ飛んでしまって全く憶えていませんが、この曲をyoutube で見つけて思い出しました。その当時からわたしはマイテレビを持っていましたので、自分の好きな番組を、イヤホーンをしながら見ていました。廃品回収の壊れたテレビを修理したのでした。中学の時は技術部の部長をしていましたから、お茶の子サイサイです。

2010年9月29日水曜日

寒い朝 (吉永小百合・マヒナスターズ )


わたしが子供の頃に、青年に憧れの的だった、吉永小百合さんのこの唄が流れていました。清純派と呼ばれ、灰汁の無い女優さんとして現在も大活躍しています。同年代で大女優と言われた人は、わたしの記憶ではいません、それほど大女優は少ないのです。その清純派の大女優が唄う曲ですから、ヒットしない訳も無く、この曲に勇気ずけられた人は多かった。たしか同名のドラマか映画をやっていたと思うのですが、わたしの記憶には残っていません。ただこの唄の舞台が冬で、冬の寒い朝には、この唄が口を突いて出てきます。

2010年9月28日火曜日

別れの朝 (ぺドロ&カプリシャス)


前野曜子さんのボーカルですが、彼女が諸般の事情で抜けてしまい、ヒットしていた真っ最中にボーカル交代と言う事態に驚きました。後任の高橋真梨子さんは、実力はありましたがタナボタだったのです。諸般の事情とは、前野さんは黒人の彼氏を追いかけて、アメリカに逃避行したらしいのです。この”別れの朝”は私の師である’なかにし礼’先生の作詞で、曲は外国でヒットした曲に、新しい詞をつけたものでした。普通、外国の唄の場合は訳詩をするのですが、礼先生は新しい試みとして全く別の詞を付けたのでした。然るに、その原曲のタイトルとは、”夕映えのふたり”という正反対の唄でした、おもしろいですね。

2010年9月27日月曜日

朝 (ペールギュント)


朝といえば、そのものズバリ朝ですね。昔よく、この曲が流れる目覚まし時計を使っていました。気持ち良過ぎて起きられないのが難点でした。その後、秋田のひなびた温泉で、鶏の声で起こされて、けっこう、気持ち良く起きられたので、こけっこう、の目覚まし時計を買いました。けっこうな洒落なんですけど解りましたか。最近は歳のせいか目覚まし時間の前に眼が覚めているので、逆に目覚ましが鳴るのを待っていて、鳴ったらすぐ止める日が続いているのですが、やっぱり目覚まし時計をセットしていないと、寝坊するのが不安で止められません。

2010年9月24日金曜日

夜明けの停車場 (石橋正次)


夜明けの曲で、ある歌謡曲をおもいだした。停車場なんて、今時のひとに、なんじゃそれは、と言われそうな古臭い呼び名です。しかし、これが昭和の言い方なんです。停車場という雰囲気に楽しいイメージはない。だから悲しい唄だという、文学的に決まっていた昭和文法なのです。’夜明けの停車場に、降る雨は冷たい。’という導入部で舞台は決定、そして悲しい物語は始まるのです。一種、太宰文学にも通ずる、たかが歌謡曲の作詞ですが、深く昭和文学を垣間見る、歌謡曲と言うものは、じつは素敵な読み物なんです。

2010年9月22日水曜日

夜明けのスキャット (由紀さおり)


この曲を聴いた時はある種、不思議な感覚に陥り、車を停車して聞き入ってしまった。スキャットと言うのを初めて知ったのは、テレビの11PMという番組のオープニングで、シャバダ、シャバダバ、シャバダバ、と言うのがスキャットだと思っていました。こう言う旋律を奏でる楽器のような歌唱法もスキャットとは違和感があるのですが、その後に洋楽で”天使のスキャット”と言う曲がヒットしたので良しとしましょう。この曲を夜明けの運転中に聴いたらとても危険です。絶対眠くなるし、気持ちよく天国に行けます。夜明けに運転する方々、ぜひ気をつけて運転しましょう。

2010年9月21日火曜日

夜明けのうた (岸洋子)


私が少年の頃、夜中は子供の時間ではなく、ほとんどの子供は寝かされていた。青年になり始めて、受験生なる人間が増えてくると、徹夜が出来るようになった。そしてこの曲の登場であるが、夜明けの清清しさや日が昇る素晴らしさを、この歌を聴きながら迎えたときの満足感は今でも憶えている。そして、成人してからも、徹夜でドライブした時などに、カーステレオのカセットに、夜明けに聴くテープが用意してある。夜が白んで来る東雲、朝日が射してくる曙など、夜明けはバラエティに富んでいる。夜明けの唄は色々楽しんでいました。

2010年9月17日金曜日

走れ歌謡曲 (文化放送)


深夜も未明に変わる頃、今度はこの番組の登場である。深夜族が寝る頃、徹夜族の為の番組である。私は若い頃、自動車メーカーのテストドライバーと言う仕事に従事していた。秘密厳守の発売前のテスト車で、夜中のテストが行われた。交代で高速テストをする周回コースで、夜明けの光が目に差し込んでくる朝方に、ヘルメットにサングラスという異様な格好で、朝焼けの鈴鹿サ-キットを爆走する。傍らのラジオではいつもこの番組が流れていた。そして、それが終わると宗教の番組で、心に愛が無ければ、どんな美しい言葉も、相手の心に届かない、というコメントが流れる。それを合図のように撤収するのが日課のようだった思い出がある。

2010年9月16日木曜日

オールナイトニッポン (パーソナリティ)


いまでも続いていると言うロングラン番組らしいのですが、今は夜中に聞く元気も残っていません。私たちの頃は糸居五郎さんとか高崎一郎さんが思い出に残っています。そしてこのテーマ曲が流れた時の安堵感は忘れません。いつも自分は一人じゃないんだ、このラジオを通じて、沢山の同世代の仲間が同じ時間を共有している充実感に包まれていた。リクエストと一緒にコメントを書くと、DJが面白可笑しく紹介してくれる。この形態は映画のアメリカン,グラフィティのウルフマン,ジャックやバニシング、ポイントのスーパーソウルに通じるものだ。

2010年9月15日水曜日

セイヤング、ハローパーティー(土居まさる&せんだみつお)


DJ天国のこの時代は数々の人気者を世に送り出した。私の友人で、DJを目指した者も居たくらいで、DJは時代の花形でした。現在は深夜にラジオを聞いている人は、夜間トラック便の運転手くらいで、それでもカーステレオなんかも利用して、リスナーも減ってきている。土居まさるさん、せんだみつおさん、みのもんたさん、それに大御所の高崎一郎さん等々、本当に現在でも活躍しているパーソナリティーのルーツは、あの深夜放送の恩恵だと思っている。昔の娯楽はみんな集中していたが、現在はグローバル化して、みんなインターネットで好きなことをして過ごしているようだ。

2010年9月14日火曜日

水虫の唄 (カメ&アンコー)


こちらは男性軍であるが、当時人気を博していた人気DJが、二人でユニットを組んでレコードを出した。その一人であるカメ(亀淵氏)は、現在ではニッポン放送の社長になっていました。少し前に、ニッポン放送買収問題でテレビをにぎわしていたので驚いた。この曲は、もともとフォーククルセダーズが唄ったものをリメイクしたのですが、深夜族の間ではかなりヒットした。深夜放送の全盛期に深夜労働していた私は、(某自動車メーカーのテストドライバー)眠気と戦うために、この手の深夜放送には本当にお世話になりました。

2010年9月13日月曜日

海の底でうたう唄 (モコ・ビーバー・オリーブ)


夜のラジオ番組で凄くヒットしたのが”パンチパンチパンチ”と言う番組で、パーソナリティに、女性三人組のモコ・ビーバー・オリーブというニックネームの、高橋基子、川口まさみ、シリア,ポール、の三人が交代で努めた。名前の通り。提供は平凡パンチだったが、当時平凡パンチを小脇にかかえて、VANジャケットをまとい、紐の無いモカシンを履いた若者が沢山いた。今で言う、石田純一さんのようなスタイルで、テレビよりラジオのほうが若者のファッションアイテムだったような気がする、正に昭和のいい時代だった。

2010年9月10日金曜日

受験生ブルース  (高石友也)


深夜族の多くは深夜労働者と受験生だろう。今は受験塾などが沢山あって、夜中まで勉強しなくても効率よく勉強できる時代になっている。私達の時代は、問題の傾向と対策が出来ていないのばっかりで、眼暗めっぽう、かたっ端から勉強していたので、合格と書いた鉢巻がシンボルになっていた。そんな受験生を風刺したこの曲がヒットするのも不思議は無い。また、それだけ受験生に指示されていたラジオの深夜番組から、次々とスター歌手があらわれてきた。今思い出してもかなりの数になるが、その辺を穿り返してみようかと思っている。

2010年9月9日木曜日

新・悲惨な戦い (なぎら健壱)


本来の曲は発禁、放禁の内容で、相撲の立ち会いで、まわしが取れて云々、という下ネタである。私達の若い頃は深夜族といって、深夜放送を(ラジオの)聴くのが日課で、学校の話題と言えばほとんどがオールナイトニッポンなどの中で扱われた内容でした。受験勉強と称し、実体はナガラ族(聴きながら)死語かな。その頃のBGMはフォークが多く、特に和製フォークなどが流れていた。ベトナム戦争の最中だったので、反戦歌などが多い中、こんなコミックソングが受けていました。悲惨な戦いは戦争の歌では無かったのでした。

2010年9月8日水曜日

いっぽんでもにんじん (なぎらけんいち)


この曲は、”およげたいやきくん”のB面にリリースされた曲で、なぎらっち、の作曲したもので、通常の著作権契約をしていれば、権料がたんまり入って来たものを、丸ごと譲渡してしまい、何万円かの作曲料しか貰えなかったという、いわく付きの曲である。A面が大ヒットすれば、枚数分のおこぼれに預かるレコードの時代、懐かしいです。作った本人は、まさかこんなに売れるとは思わず、他人の褌で、大もうけしたのにと残念がったいた。こんな事って、永い人生一度ぐらいはあると思いますが、それを運が良いとか悪いとか言うんでしょうね。

2010年9月7日火曜日

およげたいやきくん (子門真人)


ちょうど同じ年だったと思うが、こんな曲がヒットした。仕事に追われ、高度成長を支えたサラリーマンが、別の世界に逃げ出したいという願望を歌にした、大人の童謡である。この低迷期の現在から見ると、逆に仕事があるのは羨ましい事である。私が社員旅行でシンガポールへ行った時、土産屋の集るプラザでこの曲が流れていたのを思い出す。遠い異国の地で、聞きなれた”およげたいやきくん”を聞いてホッとした気持ちになったのは、世界中に愛された音楽だと言うことで、鯛焼きを知らない国でもヒットしていたのだ。

2010年9月6日月曜日

ビューティフル・サンデー (田中星児)


そのむかし、こんなHIな曲がヒットしました。平成の現在ではダサイといわれそうな、非常に健全で爽やかな青春ソングです。歌い手の田中星児さんも、曲に輪を掛けて好青年で、チョイ悪なイメージも無い。なぜそんな歌がこの時代にヒットしたか、それはまだ日本が健全だったからに他ならない。健全とは何かというと、真直ぐでひねくれていない。青年は将来に大きな夢を持ち、そして、努力すればより良き未来が約束されていた。そんな時代背景の中から生まれてきた曲なのです。ある意味そんな時代に青春時代を過ごせた事に感謝しています。あの頃の珍曲を思い出している今日この頃です。

2010年9月3日金曜日

ビューティフルネーム (ゴダイゴ)


だいぶゴダイゴが続いたが、私の友人で芸能記者のS社のI氏が西巣鴨に住んでいる。そこの近くに深夜喫茶でスナックを営業している”××○○”という店があった。深夜の常連であった私とI氏の根城のような店だが、近くに外語大があったのでデビュー前のゴダイゴのメンバーがこの店の喫茶時間に良く来ていたのです。時間帯が別なので逢った事はないのですが、店の客として応援していました。人気が出てから、そして卒業してから来なくなったそうですが。外語大も移転して、私達も疎縁になり、店には行かなくなりました。最近その場所を通ったら、その店の場所に、マンションがたっていました。

2010年9月2日木曜日

ガンダーラ (ゴダイゴ)


この曲はゴダイゴ最大のヒット曲といえるだろう。エスニックブームの真っ只中に、名前だけは聞いたことがあるが、ほとんどの人が所在を知らない”ガンダーラ”と言う場所を、宗教的に言う楽園とした内容だ。ガンダーラ佛という仏像に推測すると、西洋と東洋がシルクロードにより結ばれた西と東の文化がぶっかった辺りのようです。その仏像は肋骨が剥き出しになったお釈迦様で、その鼻は高く、顔はキリストのような風貌の仏像である。文化の違いを乗り越えたのではなく、ごく自然に混ざり合った、心の理想郷なのだろう。

2010年9月1日水曜日

モンキー・マジック (ゴダイゴ)


この曲のヒットに繫がるテレビ番組”西遊記”は私が子供の時、父親の腕にて、子守唄代わりに聞き覚えのある物語であった。キンカク、ギンカクや牛魔大王のキャラクターや如意棒や芭蕉扇などのグッズなども、小学生の頃から知っていて、この番組は欠かさず毎週見ていました。その後に何度かリメイクして、孫悟空の役や三蔵法師の役も代わりましたが、何と言っても夏目雅子さん玄奘三蔵が忘れられません。坊主頭の彼女の美しさは、神々しくもあり、こんな尼さんが居たら、女性の髪は煩悩とは関係ありませんね。番組の中で、お釈迦様が出てきますが、なんとこの役も女優の高峰三枝子さんでした。

2010年8月31日火曜日

銀河鉄道999 (ゴダイゴ)


ぞろ目と言えば999だ。以前にも更新したが、その時はテレビ版の999だったが、これは哲郎がイケメンになった映画版の主題歌である。ゴダイゴというのはキーボード奏者のリーダーであるミッキー吉野の名前から連想した。昔の日本で、南北朝時代に吉野という場所に、後醍醐天皇が朝廷を創った事に由来して名付けられたそうです。初めに聞いたときは歴史の中の天皇としか思えぬ名前に、外人の混じったバンド構成に、なにを考えてゴダイゴなんて名前にしたのか理解に苦しんだのですが、今となってはゴダイゴ=バンド名が定着しました。

2010年8月30日月曜日

22歳 (谷村新司)


日本のフリオと言えば谷村さんでしょう。フリオ繋がりではなく、ぞろ目(揃い)歳と言うことで33,22、で選曲しましたが、私のラッキーナンバーがぞろ目なんです。ふと時計を見ると4:44分だったり、前を行く車のナンバーが33-33だったりすると、物事が順調に進んでいる証で、特別良い事がある訳では無いのです。しかし、昔からこんな感じで、ぞろ目に出会うと、ほっと、安心するのです。そういう意味では、ラッキーナンバーてはなくセーフティナンバーかもしれません。九州で柳川に向かう途中に道にまよい、ルート444に出くわし、その道を行ったら柳川に着きました。まさに私のライフナンバーはぞろ目です。

2010年8月27日金曜日

33歳 (フリオ・イグレシアス)


私が、フリオにはまっていた頃、もうすぐ33になろうとしていた。時を同じくして”33歳”と言う曲が発売された。失恋してから台湾の女性に出会い、また失恋して今度は一回りも違う二十歳の女性と意気投合した。その人は京都の女子大で生物学を学ぶ女子大生で、夏休みに東京の友人とアルバイトで来ていた。行き付けのパブにバイトできていた彼女は、秋には京都に帰ってしまったが、私は仕事で大学や研究室への出入りが多く、京大や同志社大学に出張があり、彼女とOFFに東山あたりでデートしたのです。いま、フリオのこの曲を聴くと,あの頃が脳裏に、鮮やかに蘇えった繰るのです。

2010年8月26日木曜日

黒い瞳のナタリー (フリオ・イグレシアス)


まだイケメンなる言葉も無い頃に、クレイダーマンやフリオのような外国人アーティストが、ぞくぞくと日本人女性の心を魅了していました。当時のわたしは、人生で一番の恋愛に終止符を打って、傷心の底にあった頃でした。私もフリオの歌声に、どれだけ慰められたでしょう。あのころ、わたしが音楽好きだった事が幸いして、音楽によって荒む気持ちを和らげた経験が、音楽の素晴らしさを確認できて、人格形成に役に立ったのだと思います。フリオの本業が医師だったと知り、神様は人に二物を与えるのだと知りました。たまたま私には、大した物を与えずに世に送り出したのだと諦めて、平凡な人生を送っています。

2010年8月25日水曜日

秋のささやき (リチャード・クレイダーマン)


今日あたりは真夏の盛りで、もう幾つの真夏を越えてきたのかと、永い年月を生きてきた事を実感しています。クレイダーマンのこの曲は、一足速く、秋の訪れを知らせてくれる、季節の着メロでしょうか。秋が来て一年がまわる。このブログをはじめて、そろそろ一年になる。光陰矢の如し、とは良く言ったもので、過ぎてから、その速さを知るものです。初めの頃は一日2曲を更新していましたが、途中で1曲になり、最近では休日の更新は休みにしました。思い出ネタが少なくなって来たら、思い付き更新になるでしょう。継続の大変さが解りました。日記のように、その日の出来事を書き記すのならばいいにですが、思い出と言うのは、思い出したくないこともありまして、何時まで続けられるか、私の試練です。

2010年8月24日火曜日

渚のアデリーヌ (リチャード、クレイダーマン)


ポール、モーリアのブームが過ぎると、ゆとりとか癒しが求められるようになる。そこで現れたのが、リチャード、クレイダーマンでした。ピアノもいいのですが、その容姿や雰囲気が、日本の奥様達に支持されて、爆発的なヒットを実現したのです。今で言う韓流ブームのように、いくつかのブームが入れ替わり訪れたのです。貴公子のような魅力と、柔らかいピアノの旋律は、日本女性の心を鷲掴みにしました。ギター、一筋のわたしも、この時ばかりはコルグ製のエレピアノを購入して、女性にもてようと思い、鍵盤の練習をしました。動機が不純だったので、ピアノはものになりませんでしたが、鍵盤はキーボードに変りましたが、今でも叩いています。

2010年8月23日月曜日

恋はみずいろ (ポール、モーリア)


原題はL'amour est bleu と言って、青い恋と訳せるようですが、日本で売りだすのに、そのまま直訳では味も素っ気もないので、営業担当者は日本語で歌詞を専門家に依頼したのでしょう。みごとに大当たりして、みずいろブームが到来しました。それ以来、結構みずいろの曲は出回るようになりました。ベッキーという女の子がヒットさせて、ポール、モーリヤの演奏はそれより後にユーロ音楽ブームの時に、日本のタイトルで再来したのです。イージーリスニングがゆとりなんだと、日本人が思い込んでいた時期に、オーディオが馬鹿売れして、それが過ぎるとバカンス,ブームが来て、日本もがむしゃらからゆとりに変っていったのです。

2010年8月20日金曜日

エーゲ海の真珠 (ポール・モーリア)


当時、画家の池田満寿夫さんが書いた、”エーゲ海に捧ぐ”という小説が馬鹿当たりして、猫も杓子もエーゲ海という時期がありまして、その影響でこのタイトルになったのではないかと思っています。この頃グループ交際なる事をしておりまして、ドライブのBGMに流すには、ポール,モーリアさまさまだったのです。試しにカセットを変えて、エリック,クラプトンなんか流したら、何これ?、馬鹿じゃない、とブーイングの嵐でした。女には、あの泣きのギターは理解されないようです。土肥温泉の一泊ドライブ、楽しかったな~、いい思い出です。

2010年8月19日木曜日

オリーブの首飾り (ポール.モーリア)


この曲が流れていたのは30年も前になるでしょうか。テレビでは聞かない日が無いくらい、連日かかっていました。あるテレビレポートの中で”いそのえいたろう”と言う人のレポートやマジックショウーのBGMにも使われたし、ストリップやダンスにまで使用された曲でした。まさに一世を風靡したポール,モーリヤでした。これは、中国のアルバムみたいですが、漢字で表現するとこうなるのですか。日本にはカタカナと言うのが、外国人の名前に使われますが、漢字表記にはビックリしました。よって、数ある投稿動画の中から、これを選んでみました。中身は世界共通です。

2010年8月18日水曜日

涙のトッカータ (ポール・モーリア)


よく聴いた癒し系の曲だったこの曲、というよりもポールモーリヤには随分おせわになりました。この曲をはじめ数々のヒット曲を世に贈り、わたしの青春を飾ってくれた名曲達のおかげで、楽しいドライブや恋愛を脚色してもらった思い出を、この曲たちを聞くたびに思い起こす。誰でもが思い出と共に口ずさむサウンド、このブログはこのひとの為に発想されたといっても過言ではない。しばらく、夏の特集として、彼の功績をつずって見たい。彼の曲が癒しとされる出来事も一緒に思い出していきたい。帰らざる夏を偲びながら、わが青春に乾杯。

2010年8月17日火曜日

トッカータ と フーガ ニ短調 (J.S.バッハ)


もうひとつフーガを有名にした曲がこれだ。ドラマや映画のなかて、状況が急転直下した時、必ずと言って良いくらいこの曲がながれる。何か起こった時に♪ジャジャジャジャ~ン♪とベートーベンの運命が掛かるのと同様、♪チャララ~チャラララ~♪という例のやつです。私は日常会話の中でも、この、口効果音は結構使っているのです。突然に起こる出来事や、順調に進んでいた出来事の時、これを使うと緊張感が盛り上がる。まあ、それも、他人の時だけで、いざ自分に降りかかるとそんな余裕はないのですが。次はトッカータを調べてみます。意味の解らない事実は検索するに限ります。

2010年8月16日月曜日

恋のフーガ (The Suzuki Band )


終戦記念日が終わり、普通の日に戻りました。ラプソディーの次は、風雅です。漢字でこんな風に書きそうですが音楽用語なのでフーガです。輪唱のように最後まで行っても会いません。ずれたままです、恋の結末を予言しているようです。私の人生の師匠”なかにし礼”先生の作品で、先生いわく、フーガという言葉の響きと、判りそうで判らない意味が、よいのだそうです。手の届くか届かない位の看板は、飛び上がって触りたくなる、という心理からフーガにしたそうです。ザ,ピーナッツのオリジナルですが、かなりの人達がカバーしているので、洒落で選んでみました。そういえば車にもありましたよね。

2010年8月13日金曜日

玉音 (昭和天皇)


ついに戦争は終った、おおきな犠牲を出して、日本の終わりと始まりが一度に訪れた。その後に誕生した私は記憶はないが、生まれていた兄でさえ記憶はない。この放送が何を語っているかも、聞いていた人の大半は判らなかった様だ。その後の解説により敗戦を知ったのが現状らしい。この半月ほど後に、ミズリー号の甲板で、敗戦の調印が行われ、正式に戦争は終了したが、空白の半月に、まだ不幸は続いたのだ。敗戦も知らされず、南方の島で生存した日本兵までが居たのだ。戦争は破壊があるのみで、憎しみ以外、何も生み出さない。

2010年8月12日木曜日

同期の桜 (鶴田浩二)


このような戦争を題材にした映画や歌が、いつの時代も作られているが、内容はかなり奇麗事で飾られている。今年の春、私は鹿児島県の知覧町に行ってきましたが、そこには特攻平和記念館という場所があり、ゼロ戦などが展示してありました。そこにあった一遍の短歌に、アリランのという一節があり、朝鮮から軍事徴用された人が、帰り道のない特別攻撃隊に行かされた事を知りました。爆弾代わりに自爆しろと、現在の何処かでもやっているテロ攻撃を、当時の日本もやっていたのです。死んで天国の良い所に行けるのなら、苦労しません。馬鹿げた戦争が、この世から無くなって欲しいと、心から願うばかりです。

2010年8月11日水曜日

異国の丘 (合唱団)


子供の頃に電車に乗ると、戦争で負傷した軍人が、アコーディオンを弾きながら、松葉杖をついてお金を貰っていた。その頃からこの曲をなんとなく覚えて、意味も知らずに口ずさんでいた。大人になって、シベリヤの抑留のことを知り、終戦の後に捕虜となって強制労働を強いられたことを、この曲で、希望を捨てずに頑張った人達がいたことを知った。ソ連も良くないが、その戦争を起こした日本の責任もある。しかし、それにしたって責任を取るのは国民ではなく、そのときに政治をしていた人達だ。いつでも戦争の被害に苦しむのは、一番罪のない国民の力の弱い人達だ。

2010年8月10日火曜日

風に吹かれて  (Bob Dylan)


風に吹かれてどうするかと、理屈をこねている話ではなく、風と言う現象から時の流れを知ると言う内容です。どんな時も風は吹いているが、この心地よい風の中でも争いは耐えない。世界平和を風に例えて唄う、フォークソングの中の代表曲だ。たしか、”学生街の喫茶店”という曲の中に、ボブ,ディランの名前が出て来たくらい、当時の若者に支持されていた。それくらいベトナム戦争は衝撃的だったのに、世界は教訓を忘れ、再びアフガンや、イラクで戦闘を行った。それ以外にもきな臭い話が蔓延している。どれだけ風が吹いても、人間は争うのか?。

2010年8月9日月曜日

花はどこへ行った? (Mr.Children )


もうすぐ終戦記念日だが、自分が生まれた頃は戦争も終わり、復興の機運が高まっていた頃で、父は石川島播磨に従事していて、その頃あった朝鮮戦争の軍事需要で徹夜で働いていた。私が少年の頃から、青春時代までベトナムで戦争があり、我が家の近くの米軍基地にも、たくさんの負傷兵が、ヘリで運ばれてきた。その当時、アメリカで流行った、フォークソングの中にこの歌があった。完全に反戦歌である、その内容にも、アメリカと言う国は肝要で、抑え付けはしなかった。本当に、どれだけ風が吹いたら平和が来るのやら、??。ん、これは、”風に吹かれて”だったっけ?。

2010年8月6日金曜日

戦争を知らない子供たち (ジローズ)


私の年代の人間は実際の戦争は知らない。この曲にもあるように、♪戦争が終って、僕らは生まれた♪のです。記憶にあるのは、家の近くに進駐軍の司令部があって、私の幼稚園に、軍服の米兵がチョコレートをお土産に、子供をかまいに来ていたのを微かに憶えている。いま、大人になって、日本が何をして、アメリカが何をしたのか学習した。それによると、日本は戦国時代から戦を繰り返し、原爆の怖さを知り、戦争をしない国になったのだということだ。一瞬にして大量の人を殺傷する兵器が、これ以上エスカレートしないような、平和な地球になってほしい。

2010年8月5日木曜日

反原爆の歌 「原爆を許すまじ」


ここで、連想更新をいったん停止して、終戦記念日がちかずいたので特集をやってみよう。おそらく、小学生の頃だったと思うが、千羽鶴の映画を見たのだ。ひとりの少女が病気で入院して、知り合いや友人から、多くの千羽鶴を送られる。みんなの願いも届かず、その娘は死んでしまう。その時流れた音楽がこの曲だった。♪ああ許すまじ原爆を♪というフレーズが耳に張り付いた。その時、自分は鳥肌が立ったのを憶えている。まだ餓鬼だもの、何にも知らずに、ただ、何か恐ろしい存在だけを感じていた。子供なのにメガトンを知っていた時代だ。

2010年8月4日水曜日

大阪ラプソディ (海原千里・万里)


パクリと言うには当たらない、見事な模造品と言うのも違うし、作ったときにはかなり意識して”東京ラプソディ”をモチーフにしたのだろうが、出来上がったら、かなり立派なものになり、洒落の利いた別物のヒット曲になってしまつた。歌手の歌唱力もあいまって、西の代表曲にまで成ってしまった。そもそもラプソディとは何ぞや?、調べてみると狂詩曲と書いてあった。要するに、適当にその土地の雰囲気に合わせて作られた曲、だそうである。まあ、だから曲の前に地名が入っていたりする訳だ。難しい音楽用語も、またひとつ理解した。

2010年8月3日火曜日

東京ラプソディ (藤山一郎)


私が赤ん坊の頃の曲であるが、いつ記憶に刷り込まれたのか分からない。車に乗っていて鼻歌交じりに、突然飛び出してくるので、いつも不思議に思う。突然飛び出してきたら、歩行者だったら危険だが、鼻歌なので安全だ。埼玉に花崎公園というところがあるのだが、知り合いの家に行くとき通るのです。その花崎という名前を見ると、条件反射のように飛び出すのです。♪花咲花散る宵は、銀座の柳の下で♪てな具合です。東京でもないのに、ハナサキという言葉が引き金になるようです。もちろん一人の時だけですがね、馬鹿みたいですから。

2010年8月2日月曜日

東京ドドンパ娘 (渡辺マリ)


子供の頃に、空き地に集まってこんな曲をよく唄ってました。ほとんど意味も分からないのに、大人が喜ぶので、お調子者の私は物まねなんかもしていました。ドドンパというのは、日本が世界進出を狙った、タンゴとかマンボのような、日本人が考えたリズムらしい。やっぱり、世界には通用しなかったが、日本では爆発的に流行った。そのチンドン屋の奏でるようなリズムが、日本のそして昭和の平和を物語るようで、実に楽しいリズムであった。そして、振り付けもあったと記憶しているが、どんな踊りだったのか忘れてしまった。

2010年7月30日金曜日

東京の灯よいつまでも (新川二郎)


昭和の東京はこの歌にあるように、♪雨の外苑、夜霧の日比谷♪というように、夜霧がよくあったのだ。今はほとんどないのだが、当時はまだ、石炭やコークスをストーブやボイラーにつかっていたので、煙が出て、それを核にして水滴が出来、夜霧とか靄(モヤ)という現象を起こしていたのです。特に朝靄が多くて、車も電車も、朝靄で遅れることがありました。その後、スモッグなんて言われたりしましたが、スモッグは煙で、それに付いた水分でモヤが発生します。最近は太陽光線がスモッグにあたり、光化学スモッグなんていうものが出没しています。

2010年7月29日木曜日

あの娘たずねて (佐々木新一)


山手線といえばこんな曲があった。もちろん演歌派ではないが、この曲はあまりにもヒットしたのでよく憶えている。今ほど地下鉄もない時代、山手線は一種楽しみの一つでもあった。一度乗ったら、寝過ごしてもまた戻ってこるので、最低料金で結構楽しめる。もちろん、しょっちゅう乗ってたわけではないが、暇なときは一周してくるお遊びもあった。東京の風景を楽しみ、キヨスクのコーヒー牛乳を飲み、ちょっとした旅行気分が味わえる、山手線は庶民の楽しい乗り物だったのだ。

2010年7月28日水曜日

恋の山手線 (小林旭)


親父ギャグの極地ともいえる”恋の山手線”だ。自分の記憶では、この歌が流行った頃の山手線は、小豆色のコキタネー車両だったと記憶している。テレビも白黒で、娯楽に乏しい当時の日本国民は、花のスターが唄う駄洒落歌でけっこう満足したものです。何でも揃う現代は、金さえあればおおさま気分、勝手に、勝ち組とか負け組みとかに分けて、必要以上に負け組みとされる人間が落ち込む。私もそのつもりはないが負け組みらしい。勝った負けたの勝負をしたこともないのに、うまくいってる奴が勝ちで、つまずいたのが負けか?、くだらねーな。

2010年7月27日火曜日

自動車ショー歌 (小林旭)


彼のズンドコ以上に有名なのが、この”自動車ショー歌”である。晴海で開かれる東京モーターショーが始まった頃だと思うが、こんな親父ギャグみたいな、駄洒落た曲がヒットした。私はまだ免許を取れる年齢ではなかったので、自動車のことは知らなかったのですが、車種の名前はこの曲で憶えました。私たちの時代には、名前をもじって、トヨタ800をヨタ8とかホンダN360をエヌッコロとか、他にも色々なニックネームを付けたものでした。ブルーバードSSSなんかは、その格好から柿の種なんて言ってましたね。

2010年7月26日月曜日

アキラのズンドコ節 (小林旭)


こんなに足の長い人が居るのかと思ったくらいで、日活は特に揃っていた。それまでは、時代劇が映画の主流で、スターというかっこいい人種が憧れの的になったことはない。チョット不良で正義感が強い、ヒーローという存在とスターをダブらせた存在だった。ラッパズボンをなびかせて、スローモーションで蹴りを入れると二三人が吹っ飛ぶ。ポケットに両手を突っ込んで、下から覗き込む仕草が、子供のあいだでも流行して、のちのツッパリになって行ったのだろう。考えてみると、小林旭さんは元祖ツッパリだったのかも知れませんね。

2010年7月23日金曜日

ドリフのズンドコ節  (ザ・ドリフターズ)


毎週、夜の8時になるとTBSで全員集合を見ていた。あれは、ある意味昭和そのものである。コントや登場人物、建物なんかの大道具も、吹けば壊れるような長屋でした。下町で毎日繰り返される、日常の出来事を、面白可笑しくコントにして放送していた。家の中に雨漏りがしたり、家の壁が倒れたり、カナダライが落ちてきたり、少し危険なくらいの生活がそこにはあった。子供心にあれは嘘っぽいとか、本当に危険なものを見分けられた番組だった。当時はワースト番組の一位だったような気がする。

2010年7月22日木曜日

ズンドコ節


手を買え品を買え、時を超え蘇って来る曲にこんな曲があった。これは元歌のようだが、自分が聞いたのは、最初は小林旭さんのズンドコで、次がドリフターズで、最近は氷川きよしさんである。歌詞が変わって、曲も少し変わってリバイバルするが、この曲が元らしい。手拍子がぴったりで、伴奏もいらないので、宴会にはもってこいの曲であるが、時代的には”旭のズンドコ節”
が私の子供時代で、日活のヒーローがカッコイイ時代だった。そのころ、あんなに足の長い人がいるのに驚いた。今ではズボンを腰で履いて、それがカッコイイらしい、時代は変わった。

2010年7月21日水曜日

夢は夜ひらく (園まり)


この歌は自分がまだ子供時代にヒットしたものでした。カラーテレビではなく、白黒テレビがやっと普及した頃の、二代目三人娘のひとり、園まり、さんの代表曲です。自分用のテレビを持っていた私は好きな番組を観ていました。自分用といっても、廃品を500円で買ってきて、それを修理して観ていたのです。アマチュア無線に興味を持ち、簡単な故障なら直せたのです。高電圧の部分から放電していたので、絶縁体である醤油皿をその部分に置いてやっただけで修理出来たのです。故障なんてそんなもんです。

2010年7月20日火曜日

圭子の夢は夜ひらく (藤圭子)


とくにファンではなかったが、彼女の衝撃的な歌詞と巻き舌で、爆発的なヒットになった曲でした。♪15,16,17と、あたしの人生暗かった。♪まだ若い女性が、こんな台詞を口にする事自体衝撃でした。当時、クールファイブの前川清さんと結婚したのも衝撃的でしたが、すぐに離婚、その理由というのが、前川氏のペットであった鯉に餌をやらなかったらしいのです。演歌の女王に、それは無理です、普通の女性と結婚したほうが幸せです。その後、ニューヨークに越したとかで、女王に座から降りてしまいました。ウタダヒカルさんの登場まで、消息も知らなかった。

2010年7月16日金曜日

新宿の女 (藤圭子)


○○の女で連想したのは、ど演歌のこの曲だった。彼女は現在では、宇多田ママで有名だが、私が20代の頃は、演歌の女王として、芸能界に君臨していた。私が六本木の交差点にある、アマンドという喫茶で友人とお茶していたら、2階の入り口から彼女(藤圭子)が入ってきた。待ち合わせらしく、席を一望して3階へ行った。友達も自分も確信が持てないで時間が過ぎた。店を出るにも気になって仕方がない、意を決して3階へ確認に行くと、奥の席に背中を向けて座っている。さすがに、そこまで図々しくはないので、未確認である。あの日の事が、未だに気になる。

2010年7月15日木曜日

アルルの女 (ビゼー)


この”アルルの女”が曲者で、ファランドールと言うらしいのだが、とても女というイメージではなく、大男が闊歩しているようである。クラシック音楽で、この曲の最後のようにジャンで終わる事が、定番のような印象がある。だから話の終わりにジャンジャン、と言う人が居たり、物事のおしまいを、すべてがオジャンになったとか、無意識に使っているが、クラシック音楽が元になっていると、誰かが言っていた、ジャンジャン、となるわけである。あまり名曲とは関係ないかも知れないが、これを聞いたときは、な~るほど、と思った。

2010年7月14日水曜日

チゴイネルワイゼン (サラサーテ)


張日妮の二胡による演奏がめずらしい。私がクラシックを正式に聞いたのは中一でした。クラスの郷田君の家で、ステレオプレーヤーの前に座り、かなりの音量で聞かされた。それなりに感動はあったのだが、この曲は暗すぎて初心者の私には重すぎた。不安な旋律がどんどん攻めてきて、これでもかと押し寄せる。すこし太目の郷田君には悪いが、この曲の良さを知ったのは大人になってからだった。そして、その後の駄目押しで、アルルの女を聞かされて、中学生でのクラシック.デビューは出来なかった。

2010年7月13日火曜日

ピアノ協奏曲第一番 (チャイコフスキー)


ホルンのような音で始まるこの曲は、車のコマーシャルなんかでよく使われる不朽の名作です。さすがにこの曲は練習できるレベルではありませんが、エレピを購入してから、コードの練習やハノンなんかも少しやりました。けっこう欲張りな性分で、あれもこれも手を出して、そのうち飽きてしまうのですが、いろいろチャレンジしました。まあ、ギターが一番ながく続いたようですが、そのギターも最近弾いていません。狭い家に引越しをしてから、楽器も音楽も聴かなくなりました、なんか、さみしい。

2010年7月12日月曜日

ヴァイオリン協奏曲 (メンデルスゾーン)


わたしが大人になってからバイオリンを始めたのは、いつもの好奇心である。いろいろ調べたら鈴木のバイオリンが一番安い。そして教本をみると、誰でもが一度は弾く楽曲に、メンチャイ、と書いてあり、バイオリンはメンコンだと書いてあった。専門用語かと思い、ツタヤで検索したら、メンデルスゾーンのバイオリンコンチェルトを訳してメンコンだと判った。という事は、メンチャイのチャイはチャイコフスキーのピアノコンチェルトだと判明。その数ヵ月後に、コルグのエレピを購入する事になる。

2010年7月9日金曜日

パルティータ第3番より ガボット (バッハ)


この曲が耳について離れない時期がありました。何のコマーシャルだったのでしょう、思い出せません。かなり前にバイオリンに興味をもちまして、西武百貨店の楽器売り場で、安価なバイオリンを見ていたら、女性店員が「先生、生徒さんの楽器ですか?」、と話しかけてきたので、いい加減な話でその場をごまかした事があった。いい歳をして、これからバイオリンの練習なんて言えませんよ。それに、先生と言われて気分がよく、先生に成りきり見栄をはった。その場は、生徒に選ばせると言って切り抜けた。ヒヤヒヤものだった事を憶えている。

2010年7月8日木曜日

前奏曲集 7番 Prélude  A-dur, イ長調 (ショパン)


ずいぶん長ったらしい曲ですが、この曲もずっと、大田胃散という胃腸薬の曲と認識していました。子供の頃からですから、ずいぶん永く愛聴されてきたものです。もともとこの薬事態古そうですが、効き目はともかく、この曲は、日本人の認識というか、永年テレビなどで洗脳されてきた経緯から、誰もが大田胃散を連想する曲である事は、間違いない事なのである。そもそも、何故この曲がコマ-シャルに使われたか調べると、イ長調、胃腸、と言う、バカバカしいネタだそうです。調べて馬鹿をみた、下らない宣伝マンに振り回されていました。

2010年7月7日水曜日

乙女の祈り (パダルジェフスカ)


乙女といえば私は乙女座ですが関係ない。昔、ラジオの宣伝で、桃谷順天館という化粧品の会社が流していた曲です。その頃は子供心にいい曲だと思いました。まさかクラシック音楽とも知らないで、これは桃谷順天館の曲だと思い込んでいました。今思うに、そんな曲は沢山あって、大人になってから真実を知り、子供の頃の他愛無さが懐かしく思い出されます。学校の校内放送でも流れていたり、音楽室で女子生徒が弾いていた記憶もあるのに、私には、桃谷順天館が、頭から消えません。

2010年7月6日火曜日

乙女の儚夢 (あがた森魚)


ノスタルジーと言うか、懐古趣味というか、大正浪漫なんていう言葉が流行り、このアルバムを友人に借りた。彼女も懐古趣味で、古いものが好きで趣味が合った。この曲の♪乙女の父さん人力車夫♪と言うくだりがあるが、平成の現在にも人力車は存在する。すると言うよりも、復活したというほうが正しいだろう。なぜ大正時代のものが復活するのか。私でさえ本当の人力車の時代は知らない、なのに、観光地は人力車でゆっくり見物するようだ。結局知らない人たちには新しい存在なのだろう。スカイツリーもいいけれど、浅草の風情も無くしてはいけない、と言うこと。

2010年7月5日月曜日

赤色エレジー (あがた森魚)


この曲が世の中に流れていたのは、まさに♪昭和余年は春も宵、桜吹雪けば情も舞う♪と唄っているように、昭和の歌のようですが内容は明治そのものです。まあ、明治と昭和のあいだは16年しかなかったので、昭和元年の20年前は明治だったのだから、雰囲気は似た所もあるでしょう。私が20代の頃、危険な、自動車の実験走行を職業としていた時代、鈴鹿という遊園地にあるホテルで聞きました。モノクロームな世界観が車のニューモデル開発と相反して、新鮮に聞こえたのです。歌の中身は死語ばかりで、現代では使われなくなった言葉ばかりで、それがヒットの要因かもしれません。

2010年7月2日金曜日

昭和柔侠伝の唄 (あがた森魚&緑魔子)

http://www.youtube.com/watch?v=wW2E7illVdg&feature=related
 
 ◎昨夜、姪が早産して2ヶ月も早く男子を出産した。更新が遅れたことは仕方ない、それに、昭和の曲を選んだのに、直張りしか出来ませんでした。

2010年7月1日木曜日

私だけの十字架 (F.チリアーノ)


特捜最前線の挿入歌のこの曲は、よくクロードチアリと間違えて、誰もそうだと思っていた。実際は別人で、番組でもその事が話題になり、本人を登場させたのだ。この特捜物は、古くは特別機動捜査隊という番組のながれで、警察捜査番組は人気があった。こんな番組をyoutubeに投稿してる人もいるんですね。私もVHSビデオで撮り貯めた、映画はいっぱい持っているのですが、テレビ番組は持っていません。見ていると、懐かしい女優さんの緑摩子さんが出ているではないですか。彼女、妖しい魅力の女優さんでしたね。

2010年6月30日水曜日

夜霧のシルエット (クロード・チアリ)


クロード・チアリといえば夜霧と言う印象がある。クラシックギターと言うよりも、ムードギターというジャンルになるでしょう。映画やドラマのワンシーンを彷彿させる清らかな音色が、私の青春時代をギターと言う娯楽に引き込んだのです。あくまでもアマチュアの範囲ではあるけれど、人が聞いて、聞き苦しくはなかったと自負しています。最近、ネックを握る事も少なくなって、もう何年も弾いていないけれど、自転車と同じで、少し腕は落ちても忘れる事はないので、また弾いてみようかと思う今日この頃です。

2010年6月29日火曜日

夜霧のしのび逢い (クロード・チアリ)


今ではすっかり日本人になってしまった彼は、アコースティックギターの世界に僕らを誘い魅了した、外国人でした。日本が好きで帰化した彼は、日本人の名前に変えて玄人(クロウト)と名乗るほどの親日家でした。この”夜霧のしのび逢い”は石原裕次郎さんの”夜霧よ”の出だしに影響したと聞いています。私が練習した頃は、リール巻のテープレコーダーで、バックミュージックを録音して、それを流してメインを弾いたものです。ギターソロは貧乏青年にはけっこう暇つぶしになりました。あの頃のテープはどこに消えたのでしょう。

2010年6月28日月曜日

禁じられた遊び (ナルシソイエペス)


これは映画のタイトルで、この挿入曲は”愛のロマンス”です。モノクロームの世界で、戦火を逃れた家族が、とある田舎町で戦闘機の銃撃にあい、両親を亡くした少女と少年の田舎町でのひと時を描いた作品だった。中で聞こえてくるクラシックギターの音色に、何かとてつもない虚無感をおぼえ、若者はみなギターを買いにいったのです。ところが、意外とこの曲なんちゃってで、6弦を移動するだけでそれらしく弾けてしまうので大ヒットしました.正式に弾くと難しいのですが、我々の年代では一度は弾いた事がある”猫踏んじゃった”のような曲でした。

2010年6月25日金曜日

ミッシェル (ビートルズ)


ミッシェルをクラシックギターで弾いた事がある。何と落ち着いたいい曲なんでしょう。よくガットギターとも呼ばれ、昔は羊の腸で造られた弦を張ったので、ガッツ(腸)と呼ばれたらしいのですが、OK牧場とは関係ないです。むかしの日本は古賀メロディーなんかに使われるナイロン弦のギターが、とても弾きたくなる今日この頃なのです。音色とは年代によって変るものですね、PPMやボブディランに憧れた頃、エリッククラプトンやジェフべックのストラトキャスターに夢中になつた頃。そして今はガットギターなんです。

2010年6月24日木曜日

ノルウェイの森 (ビートルズ)


また起こってしまった、以前と同じように、このブログに書いた事が現実に起きた。去年の秋頃、加藤和彦氏の事が頭に浮かび、いま如何しているのかとブログに書いた次の日、彼は自殺した。今回はジョンレノンの事で、秋葉原事件の事を批判して、低級霊の話を書いたが、次の日、昨日、マツダ事件が起こってしまった。犯人の目を見て感じた低級霊の存在、どこかで見た事がある。そうだ、犬の敵討ちと称し、公務員を殺害した小泉だ。そして茨城の荒川沖、無差別殺人や、秋葉の加藤も同じ目をしていた。まだ人間として生まれるには未成熟な低級な霊魂。それが今どんどん生まれてくる。

2010年6月23日水曜日

ゲットバック (The Beatles)


この屋上ライブは、われわれの年代では忘れられない、思い出のワンシーンだろう。取り戻せ、と直訳してもいいし、カムツギャザーのように昔に返ろうでもいいが、テンポが抜群で憶えやすい。いまでも屋上にのぼると、ギターを抱えてまねをする。もちろんギターがある訳も無く、エアーギターってやつだけど、条件反射のようにポーズする。それだけビートルズは衝撃的だったのだろう。ポールの曲はバラード調がけっこういいので、アコギター(生)の練習にはよかった。ミッシエルとかイエスタディなどは生一本で出来るので手ごろだ。

2010年6月22日火曜日

イマジン (ジョン.レノン)


ジョンが撃たれた時わたしは仕事場のラジオを聞いていた。臨時ニュースを聞いて、何故?と思った。人に恨まれることを嫌い、争いが嫌いで、インドに修行まで行った彼が撃たれる理由?。世界に愛を唄って平和を訴えていたのに。キチガイに刃物とはいうけれど、あの秋葉事件の犠牲者も同じ、何の罪もない人が殺される。平凡なピープルが憂さ晴らしのターゲットになる。冷静に考えて、その後どうなるか考えない低級霊の出没に、世は愁いている。真の自殺者は誰にも迷惑をかけずに死ねばいいのに、死ぬ前に憂さ晴らしをして、憂さを晴らしたら死にたくなくなる。なんと身勝手な犯罪者達だろう、たったひとつしかない命を無差別に壊すなんて。自分で自分の首しめろ。

2010年6月21日月曜日

ああ無常 (アン.ルイス)


この歌を唄ってアンルイスは世の無常を知ってしまったのでしょうか。ほかに生き方があるのではないかと、無常と無情は遠くて近きものなり、こんな宗教哲学にはまる事がある。わたしも幾度となくそんな事を思い、いまでは中途半端な人生を送っている。だけど、あの時とか、たられば的な後悔をしても、飛躍的に変化する運命なんてすくない、たいていは少しずつ所信からずれてって、気が付いたら死んでたりする。ジョンレノンなんてそれで殺された訳で、無情なのか無常なのか他人の思い込みで犠牲になってしまった。

2010年6月18日金曜日

六本木心中 (相川七瀬)


この曲はアンルイスの大ヒット曲ですが、彼女はこの曲あたりから鬱状態になり、離婚してハワイに移住してしまいました。ある意味世捨て人というか、芸能界に住みたくないという希望が強く、歌手活動を止めてしまいました。六本木の代表曲にもなったこの曲を、最近気になる女の娘がカバーしているので、そのアレンジを聞きましょう。最近妊娠が発覚5ヶ月だそうで、暫くは、こちらも芸能活動はお休みになるのでしょうか。携帯のCMがけっこう可愛いですね。

2010年6月17日木曜日

湾岸太陽族 (荻野目洋子)


調子にのってもう一曲、オギノメちゃんをいってしまう。いつのまにか連想ゲームのようになってしまった更新も、尻取りゲームにも変わったり、いい加減さが目立ってきたので、ここ一番、張り出し横綱じゃないけれど、張り出しメニューと行きましょう。この当時湾岸という名前が流行った事もあり、映画でも”湾岸道路”という作品がヒットしたり、その影響かは分らないのだが、湾岸戦争なんて戦争の名前にまで使われてしまった。東京湾の開発が進み、高層ビルやテレビ局の移設、お台場の開発、レインボーブリッジが出来、若者たちは湾岸に押し寄せた。明日は一日戻って、通常の連想つながりで、六本木からですよ。

2010年6月16日水曜日

六本木純情派 (荻野目洋子)


私達の時代には六本木神話なるものがあり,ここは時代のステータスシンボルのような場所だった。最近では鼠先輩なるアーチスト?のような、ぎろっぽん、とか業界言葉でひっくり語や、音楽業界の裏言葉でC千だとかG万なんて、金額表示を喋る人種が横行したのだ。私が青春してたころは、”最後の20セント”とかロアビルの向かい地下のビップスなんかに屯するのが流行っていた。それより前は、六本木族、野獣会なるグループが幅を利かせていた時代があり、グループから、有名な歌手や俳優が出るくらい、由緒ある場所だったのです。

2010年6月15日火曜日

ダンシングヒーロー (荻野目洋子)


恥ずかしながらファンでした、て言うかお姉さんのファンでしたが、彼女がデビューしてから音楽方面でしたので両方を支持したわけです。彼女が出た頃はテクノサウンド全盛期で、YMOなんかが活躍していたので、彼女の曲も当然テクノだったのです。だから今聞いても遜色なく。今年の新曲としても通用すると思います。とにかく何と言っても可愛いのが大きな武器です。お姉さんはあまりブレークしなかったけれど、彼女は声優出身で大ブレーク。私の人生であの時もっと若ければ、もっと応援したのにと思っていました。

2010年6月14日月曜日

ダンシングオールナイト (もんた&ブラザーズ)


ダンシングで忘れられない曲は”ダンシングオールナイト”です。しゃがれ声のもんたのシャウトは絶品です。恵比寿のディスコクラブで名前は忘れましたが、鏡張りでレーザー光線ギンギンの店に言ったのは幾才の時だったのだろう。この曲がかかっていたのは鮮明に覚えているのに、そこに誰といたのか忘れている。恵比寿だから、近くに住んでいたM子だということは解かるが、ほかに誰が居たのか思い出せない。ただ、その一瞬だけが強烈にフラッシュバックするのだ。特に意味の無い場面が曲を聞くと飛び出してくる、脳みそというのは不可解な物質だ。

2010年6月12日土曜日

ダンシング・クイーン (アバ)


本日は更新は休みなんですが、この曲も名曲なので載せておきましょう。

2010年6月11日金曜日

マンマ・ミーア (アバ)


アバのマンマ.ミーヤと言えばこんな事があった。姉の娘がカリフォル二アにホームステイした事があった。代りに半年後、アメリカから中学生の女の子が我が家にステイした。彼女は日本語が全く出来ないから大変だ、車で東京を案内したのはいいが、オジサンでは警戒してあまり喋ってくれない。姪とは片言の英語で会話は成立しているようだが、私は完璧に運転手になりきっていた。車のオーディオからはホテルカリフォル二アが流れていたが、彼女は眉間にしわを寄せていた。雰囲気を変えようとアバを流したら、マンマ.ミーアが聞こえてきた。オー、マンマミーア、と言って、突然機嫌ががよくなり唄いはじめた。母親を思い出したのかもね。

2010年6月10日木曜日

木枯らしの少女 (アバ)ABBA


アバを最初に聞いたのはこの曲だったと思う。2+2のダブルデュオでABBAという、名前の事は印象的で、その後リリースしたマンマ.ミィアという母さんの曲の言葉にはエピソードがある。旧い友達で津軽の人がいるのだが、あちらでは母さんの事を、アバと言うらしい。彼は母さんが母さんの歌を唄っていると冗談を言っていた。アバの本人達も、日本の方言でアバが母さんだと知っているかは解からない。おそらく知らないだろうと思うが、アバがママの歌を唄うとは偶然は面白い。ちなみに、津軽では親父さんの事は、オド、と言うらしい。

2010年6月9日水曜日

木枯しの二人 (伊藤咲子)


木枯らしで、こんな歌を思い出した。まさに昭和の女の子、って感じの伊藤咲子さんは、小学校で隣の席にいた下町の、令嬢ではないフランクな少女。イメージで言うとそんな感じになるんだけれど、手のとどきそうな気さくな娘を売りにした、新しいタイプのアイドルだった。阿久悠先生と三木たかし先生のゴールデンコンビの作品で、ヒットしないわけが無い。けっして美人ではないが、親近感は抜群でこれから、と言う時にあの事件があった。スキャンダラスなその事件は、彼女をアイドル席からひきずり落とした。その事件は内緒の話で、興味のある人はググッてしらべよう。

2010年6月8日火曜日

だれかが風の中で (上條恒彦)


TVのまえで食入るように夢中に観た時代劇、”木枯らし文字郎”は、始めてみた汚い時代劇だった。それまでの映画やドラマの時代物は、貧しい農民や下町の庶民が、けっこう身奇麗で新品のモンペを着たり、破れた襖が破れたばかりの新しさで、なんかチグハグだった。市川昆、監督の”股旅”と言う映画を見た時、なんと汚い映画なんだと思った。しかし、現実はこれが本当の姿だとも思った。その影響もあってか、この文字郎シリーズはヒットした。群馬県新田郡三日月村と言う場所は、群馬県の藪塚と言う所に再現されて、園内では古銭で物を買える趣向があり、何度か遊びに行った思い出がある。

2010年6月7日月曜日

出発の歌 (上条恒彦)


出発(旅立ち)の歌、出発を旅立ちと読ませる、あたらしい日本が始まる。昭和がまた遠くなって行くような気がするのは、私だけではないだろう。政治家で変る国って本当の我国なんだろうか。一人一人が夢を持ち、それに向かって進んでゆく、それでこそ私の国、我が祖国ではないだろうか。♪さあ今、銀河の向こうへ飛んでゆけ♪この歌がヒットしたのは高度成長期のど真ん中、ヤマハのポプコンだと思うが、グランプリを取った最優秀曲だった。今日から日本のリーダーが変る。平成が、また高度成長期を迎えられるかは、総理大臣ではなく、私達にかかっているのだ、さあ、出発だ!。

2010年6月4日金曜日

Take HEART (鳩山由紀夫)


時を同じくして、大きな変革が起こった。記念にこの歌をこのページに残しておこうと思った。情熱は人一倍ある人だったが、政治家には向いていないと感じた。時の流れと運命は、こんな所まで人を運んでしまうのだ。ここまで来た責任は自分にもある、とは思うのだが、この歌を唄っていた頃は、まさかこんな形で政界を後にするとは、夢にも思わなかったであろう。私の人生の中でも、思わぬ事が侭あった。まさか貸し切りの鈴鹿サーキットを走ったり、映画俳優と酒をのんだり、時として思わぬ場所に居る事がある。人生、先の事は運命しだい、自分でもどうにも成らないのだ。