2010年12月30日木曜日

ビバルディ 冬 (イムジチ)


この曲を聴いていると心が休まるのは何故だろう。年の瀬に考えてみると、冬の訪れと共に寒さも厳しくなってくる時期に、一番の暖かさは何だろう。それは暖房であるが、この曲の終始聞こえているバイオリンのピチカートが、暖炉にかかっている大きな鍋で、スープがコトコトと煮詰まっている姿を想像させる旋律なのです。だから自然と体が温かく感じて冬の室内の快適な中で、ロッキングチェアーに座って時を過ごしている。そんな姿の環境は、自分にはありえないとは思うのですが、冬だから寒い曲を創らなかったビバルディーは偉大だと思います。

2010年12月29日水曜日

お正月 (唱歌)


なんだかんだと更新していたら、もうこんな時期になってしまいました。恐らく今日辺りが仕事納めで、明日から年末年始の休みに入るのでしょう。子供の頃には正月が待ち遠しくてしかたありませんでした。何と言ってもお年玉が一番の楽しみでした。だけど、残念なのは我が家の場合、半分しか貰えなかったのです。母が言うには、向こうにも子供が居るのだから、その分お返しをするのだから、本当は親から貰っている様な物だと、実に現実的な解釈をさせられて、楽しみが半減しました。でも今でもお正月は大好きです。その母も今年の11月に亡くなったので、来年の正月は今までで一番寂しい正月になるでしょう。

2010年12月28日火曜日

帰り道は遠かった (チコとビーグルス)


次の一発屋グループはこのグループです。この曲の作詞はやっぱりマルチ作家の藤本義一さんでした。彼のマルチぶりは有名でしたね、11PM という深夜番組の難波担当というか、大阪のパーソナリティでしたよね。ちなみに東京のパーソナリティと言えば、あの大マルチタレントの大橋巨泉さんでした。遊ぶ事なら人一倍の多才な人物です。私なんかはとてもスタミナが持ちません、何をやるのも躊躇してしまうし、失敗が恐いので初めからやらない。このへんで大きく差がつくのでしょう。パーソナリティになるにはパーソナルコンピューターのように、マルチな仕事をこなせなくてはいけないようです。

2010年12月27日月曜日

ハチのムサシは死んだのさ (平田隆夫とセルスターズ )


一発屋のグループと言えば、こんなグループが居たのです。御伽噺のような物語を唄って大ヒットしたのですが、次の曲が続かないなで、一発屋でした。この曲の歌詞は、俳優の内田良平さんが作詞したもので、見かけに寄らずロマンチストだったという驚きが話題になったのでした。この当時、異色の作詞家が多くて、本業をもっていながら作詞もするという、マルチな才能の人達が多く登場した時期でした。私も作詞の勉強をしていましたが、マルチな才能は無かったみたいで、残念ながら今だにお呼びがかかりません。

2010年12月24日金曜日

サハリンの灯は消えず (ザ・ジェノバ)


ロシアの雰囲気を唄う歌謡曲といえば、この曲を思い出しました。本来はジェノバではなくクーガースというグループの曲なのですが、こちらの方が売れたので、youtubeでもこちらしかありませんでした。クーガースは異色なグループで全員スカートをはいていました。ポリシーとしてはスカートではなく、スコットランドの男性がはくキルトと言うものらしいのですが、何か意味わかんない。それはともかく、わたしはその頃、そのレコード会社に出入りしていたものですから、何度か見かけた事があり、応援していたのですが一発屋で終ったようです。

2010年12月22日水曜日

ポーリュシカ・ポーレ (仲雅美)


突然ではありますが、何日か前に投稿したイブモンタンの枯葉を聴いていたら、前奏に聴いた事のあるメロディーが流れていました。何の曲か思い出せずにいたのですが、今日やっと思い出したので割り込んで投稿します。それはロシアの軍歌で”ポーリュシカ・ポーレ”という曲でした。むかしは歌声喫茶なる場所がありまして、お客が声を出して合唱するという、娯楽があったのです。曲はロシア民謡が多くてトロイカ、カチューシャなどのマイナーメロディーが多くて、若者の婚活場所でもあったのです。この曲はその時代では無いのですが、なぜか当時を思い出させるロシア独特の旋律ですね。

2010年12月21日火曜日

心もよう (井上陽水)


エレキギターをはじめた頃はパイプラインのイントロから入りましたが、陽水さんのコピーをはじめた頃はこの曲のイントロでした。どこか似ていて別物という不思議な曲でもあります。同じメロディーの繰り返しから始まるのでそんな感じがしたのでしょう。この曲を聴いてから陽水ファンになった人も多いと思いますが、それまでは気味の悪い存在でした(失礼しました)でも、こんなセンチメンタルな曲を創る人とは知らないで、外見で見ていた自分が恥ずかしい限りです。それからと言うもの、熱烈なファンになり、ほとんどの曲を聴きました。

2010年12月20日月曜日

夏まつり (井上陽水)


どうして寒い冬なのに夏祭りなのか、と思うでしょうが、冬の雪のなかでキンキンに冷えた生ビールを飲むのと違い、音楽は季節に関係なく季節を感じる事が出来るのです。夏祭りで金魚すくいをしたり、ヨーヨー取りをしたり、この唄を聴くとあの頃に還れるのです。曲が終ると現実に戻ってしまいますが、音楽の流れている時間だけは夏です。私が子供の頃は、夜店の明かりの中にカーバイト照明というのがありまして、やたらと煤が出て顔が汚れるのです。将棋屋さんとか占い師が良く使っていました。色んな変った店があったんですよ、おもしろかった。

2010年12月17日金曜日

夏休み (吉田拓郎)


高校生の夏休みに同級生のMが、海で死んだ。奴はかなりの悪ガキで、不良グループの一員だったが、クラスの人間には悪い事もしないし、特に女子高生には人気があったようだ。彼の葬式にクラス全員で参列したのだが、女子高の生徒が沢山来ていたのには驚いた。我々は男子校で女子高なんか憧れだったのに、あいつは何処であんなにナンパしていたのか不思議だ。恐らく、彼女達も、もしかしたら不良グループの仲間かも知れない。彼女達の服装がそれっぽかったので察したのだ。人間どんなグループでも、惜しまれて死ぬのはある意味感慨深いものがある。

2010年12月16日木曜日

あー夏休み (チューブ)


夏休みというと、私の場合は軽井沢と言いたいところですが、少し離れた下仁田と言う所に思い出があります。東京で生まれた私には田舎という場所がありません。そこで、母の姉が暮らしていた下仁田へ、夏休みを利用して小学生の兄弟3人だけで十日くらい遊びに行ったのでした。朝は早くから橋の上で、町の人が集ってラジオ体操です。下の川は泳げるくらい綺麗で、魚を捕ったりして遊びました。夜になると学校のグランドで映画大会をやるので、毎日が楽しくて最高でした。帰る日の前日に浅間山が噴火して、下仁田にも火山灰が降りました。その火山灰を集めて学校の宿題に使ったのを思い出します。

2010年12月15日水曜日

夏のクラクション (稲垣潤一)


この曲は夏の曲なので、寒い季節には暖房代わりになるかも知れません。海岸沿いをドライブするのに、とても良いBGMだと思います。今はもう行かなくなりましたが、鎌倉に憧れの人が住んでいて、その人の居た街を歩きたくて月一程度の割合で行っていました。その人は女性ではなく男性です、と言うのも、彼はレーサーで、トヨタ自動車のテストドライバーでした。その彼は福沢幸雄さんでした、テスト中に死亡してからというもの、何かに取り付かれた様に鎌倉通いが始まったのです。その時、この曲はありませんでしたが、この曲を聞くと、あの当時の自分を思い出すのです。その後私も自動車メーカーのテストドライバーになりました。

2010年12月14日火曜日

クリスマスキャロルの頃には (稲垣潤一)


クリスマスキャロルとは聖歌の事のようですが、私の少年期に、教会の日曜学校というのがあって、そこに通う友人から誘われて何度か行った記憶がある。朝早くに、浮浪者が来るのでスープとパンをあげたり、聖書の勉強をしたりしました。その友人はイスラエルのほうへ修行に行き、今では川越のほうに教会を造り、牧師として活躍していると、風の噂で聞きました。イスラエルから帰国した当時、彼の母親から頂いたお土産のキリスト教の掛け軸は、何処にしまいこんでしまったのか行方不明です。あの頃一歩間違えていたら私もキリシタンだったかも。

2010年12月13日月曜日

クリスマスイブ (山下達郎)


イブモンタンから此処に来ました、もうすぐ時期ですからね。♪雨は夜更け過ぎに雪えと換わるだろ♪、こんな天気予報みたいな唄い出しですが、JRのコマーシャルと言う事でスポットで散々ながれるのだから絶対ヒットする。イメージビデオも相俟って、ヒットしないわけが無い。こんな曲って幾つかありますが、こんな状況の人生を送ってる人間ていうのも居そうですね。良い家に生まれてよい教育を受けて、エリートコースを歩んで。なんと羨ましい人生なんでしょう。それでも、私の場合は私の父と母でよかったと心から思っています。

2010年12月10日金曜日

枯葉 (イヴ・モンタン)


この季節が憂いを感じるのは、この枯葉のせいである。青々と栄えていた命が、朽ちて落ちてゆく姿を見て、悲しくない人は居ないだろう。みんな自分の人生に照らしてみるから、枯れて落ちる葉を死と考えるのだろう。だけど、冬を乗り越えるために葉を落とし、春が来ればまた目を出して成長するプロセスのシーンとして考えれば、枯れ葉は悲しい現象では無いし、人の死とは全くの別物で、悲しがる必要もないのである。枯れ葉よ絶え間無く、と言うフレーズはやっぱり悲しい響きを持っているが、動物の死と植物の葉っぱの死は意味が違うのだ。

2010年12月9日木曜日

愛の賛歌 (エディット・ピアフ)


愛という大きなテーマを謳い上げたピアフも、もうこの世にはいない。そして新しい愛が生まれて消えてゆく。人の命の何と儚い事か思い知るこの季節。今の今までそこに居た人が、死を迎える事により、もう二度と逢う事が出来ないし、この言葉に反応する事も無い。生きてその事実を受け入れなければならない、何と不条理で悲惨な事か。いっそ一緒に旅立てたらと思ってしまうほど悲しい事実を付き付けられる。愛とは何ぞや、愛の終る時の悲しみは、何と重い事でしょう。後悔しない人生なんかは絶対にない、人生は愛と後悔の繰り返しである。

2010年12月8日水曜日

愛の願い (ミッシェル・ポルナレフ)


愛の、とくればこの曲も好きでしたね。ポルナレフが続いたので今度は違う角度から攻めますが、今回はこの路線でいきましょう。見た目と曲のギャップが大きいこの曲は、しみじみ聴きたい曲です。私の場合、青年から大人に換わる一時期にこの曲と出会いました。季節で言うとちょうど夏が終わり、秋が訪れる頃、そんな心境の時に聞いたのです。愛と恋とがこんなにも両極にあるのを思い知らされた、恋一辺倒の青年期と、愛の為に諦める事もあるのだと言う事を知る成熟期。そしてその時期も過ぎて、今は愛する人を見送る時期に来たようだ。

2010年12月7日火曜日

愛の休日 (ミッシェル・ポルナレフ)


この人の裏声は魅力がありますよね。最近容姿が良くなくても、唄が抜群に上手ければ、認められる世の中になってきましたが、昔はそうではなかった。唄や声が良くても、見た目に感動がなければ認められませんでした。ですから髪の毛や化粧とか眼鏡とか帽子や衣装で、とにかく人目を引いたのです。俗に言うビジュアル系というやつです。歩ルナレフやボーイジョージなんかはそちら系でした。でも一度世に出てしまえばこっちのもの、あとは唄や曲で勝負です。実にいい曲を歌っていましたね。だから後半になってファンになりました。

2010年12月6日月曜日

シェリーに口づけ (ミッシェル・ポルナレフ)


この軽快な曲を知らない人はいないと思います。ポルナレフを最初に見たときは、ただのいかれたアンちゃんかと思いましたが、以外と曲がいいので聴いていました。この曲はコマーシャルに使われたりお店のBGMなんかにも流れていて、なんとなく元気が出て来るような旋律ですよね。私の友人のあいだでも人気がありましたし、この手の曲を聴いていると芸術家っぽい感じじゃないですか。だからカッコつけて聴いていたのもありますね。髪の毛を虹色に染めたりして、日本の作家で志茂田カゲキなんていう人も居ましたけれど。

2010年12月3日金曜日

シェリー  (九重佑三子)


田辺さんと言えば奥様は九重祐三子さんですよね。だいぶ昔ですが、友人に誘われて彼女の舞台を観劇したことがありました。場所は教育会館だったと記憶していますが、定かではありません。友人というのは、元祖ジャニーズのリーダーであった真家宏美さんでした。幕が降りると楽屋へ行き、劇の出来を絶賛して、私を彼女に紹介してくれました。何故か新人マネージャーとしてですがね。ただの友人としてだとカッコつかないらしく、にわかマネージャーとしての紹介でした。化粧台のまえで、メイクを落とすその姿は、お姫様のようでした。もともと私はあまり芸能界には疎いので、舞台裏の楽屋などは入った事が無いのです。いい勉強になりました。顔の売れた芸能人は、こんな場所に来ても顔パスで、その時は凄いと思いましたが、それはそれで苦労があるようですね。

2010年12月2日木曜日

空港一人ぽっち (田辺靖雄)


空港で思い出す曲と言えば、この曲が衝撃的で羽田詣でをしたのを、飛行機を見る度に思い出します。この曲のドーナッ版のレコードを持っていましたが、いつ無くなったのか記憶にありません。この当時の歌詞に良く出てくるフレーズで、エトランゼ、と言う言葉がありますが、これは英語のストレンジャーと同じではないかと思います。一人の旅する人をこう言うのだと理解します。いま私がやっている旅のスタイルが、まさにエトランゼではないかと感じます。言葉の雰囲気からフランス語ではないのかと思っていますが、調べた事が無いので解りません。そう思うと、かなり昔から一人旅に憧れていたのだと思います、そして、いま実践している自分を見ると、今の自分が、あの頃の自分が、年をとった自分なんですね。

2010年12月1日水曜日

ジェット最終便 (朱里エイコ)


さあ、通常の進行で更新していきましょうか。たしか、空の終列車、で止まっていましたね。そのものズバリの曲がありました。”ジェット最終便”です。これは彼女の大ヒット曲”北国行きで”の空路版ですね。二番煎じの曲としては当然、そんなにはヒットはしませんでしたが、彼女のファンとしたら、都会的な彼女の別れ歌としては、こちらのほうがマッチしていたように思います。私もこの頃は外国かぶれしていまして、ニューヨークの町並みやパリの市街地のイメージにどっぷりで、日本の良き景色や建造物には興味がありませんでした。ところが、現代では、日本の田舎の風景に憧れた、日本かぶれの外人さんが、はっぴにはちまきで、村の神輿を担いでいるではありませんか。いったいどうなっているんでしょうか?。