2011年12月30日金曜日

銀色の道  (ダークダックス)


今日はもうラス前になってしまいました、明日はオーラスです。と言っても解る人にしか通じませんが、明日で終わってしまいます。だけど、生歳生ける者は命のある限り終わりはありません。♪続く続く明日も続くーーー♪遥かな道は続くのです。来年も再来年も元気であるように、ただそれだけを祈ります。

2011年12月29日木曜日

雪 (猫)


雪といえばこんな曲を突然思い出したのでした。たしか吉田拓郎の作品だったと思います。唄っているのは猫、と言っても動物ではなく3人組のアーティストだと記憶しています。年の瀬に静かに聴きましょうか。

2011年12月28日水曜日

ペチカ (NHK)


ほんとうに寒い日が続く年末です。ここ東京で雪は降らないものの、しんしんと冷えてくる夜は、この曲を思い出します。♪雪の降る夜は楽しいペチカ、♪ところでペチカって何?、今の今まで解らずに唄っていました。♪ペチカ燃えろよ燃えろよペチカ♪、と言うくらいだからストーブとか暖炉の事では無いかとは分るのですが、実態は見たことがありません。

2011年12月27日火曜日

トロイカ (東京少年少女合唱隊)


昔から雪で思いつく曲は、決まってトロイカでした。何十年か前にトロイカと言う言葉が脚光を浴びました。旧ソビエト連邦が崩壊したとき、ペレストロイカという思想のような物があったのを、ほのかに憶えていますが、私の中のトロイカはこの曲を雪の夜に唄った思い出です。ふざけて、寿司のトロとイカの事だと笑った幼い日々、今だからロシアの雪原の歌だと分りますが、その当時は日本の歌だと思いました。

2011年12月26日月曜日

雪 (合唱)


クリスマスの終わりとともに、大晦日がやってくる。この数日のあいだ寒波がやってきて、日本海側や西日本まで大雪が降っている。雪と言えば子供の頃からこの曲を唄っていましたが、いつ何処で憶えたのか思い出せません。だけど、今は居ない飼い犬と走った雪の日や、父や母と雪かきをした頃を思いだして涙が出て来ました。今の私には、楽しい雪ではなく悲しい雪です。

2011年12月22日木曜日

ラスト.クリスマス (ワム)


さあ、もうクリスマスです。多くを語らず、じっくり聴きましょう。

2011年12月21日水曜日

ルート66 (サウンドトラック)


同じくテレビドラマのアメリカ晩で、77から66と言う数字が繋がってきます。わたしが子供時代、アメリカを知るにはこれがいちばんでした。

2011年12月20日火曜日

サンセット77 (サウンドトラック)


テレビの連続ドラマのアメリカ版ですが、何故この曲かと言うと、このドラマの主人公の男優とあのアン.マーグレットが結婚したのです。縁は異なもの、とは言いますが、いったいどんな展開でそうなったのでしょう。

2011年12月19日月曜日

バイバイバーディー (アン.マーグレット)


エルビス.プレスリーが活躍していた頃は私は少年でした。その少年の心に小さな火を着けたのが、彼と”ラスベガス万歳”という映画で共演していたアン.マーグレットでした。女性への憧れ、それも白人の女性へのほのかな憧れは甘い感覚でした。きっと彼女はエルビスと結婚する物と思っていましたが、その予想は外れました。でも、それをきっかけに、私の外人女優の素敵な魅力におぼれて行くのでした。

2011年12月16日金曜日

ブルーハワイ (エルビス. プレスリー)


エルビスの最後のイメージは、何となくハワイなんです私的には。ヘンな日本語ですね、外人のコーナーが続くと文章が壊れてきます。エルビス.オン.ハワイ辺りからパラダイス感覚のエルビスに変化していきました。彼の出演する映画も、OOOO万歳というタイトルがシリーズになり、アメリカンドリームが膨らんで順風万帆だったのです、あのベトナム戦争が起こる前は。

2011年12月15日木曜日

GI ブルース (エルビス)


GIが米兵なのはこの曲で知りました、日本人の歌手も歌っていました。♪ふるさと離れてはるばるGIさ GIカットで*****ハッチュースリーフォーオキベスGIブルース♪なんて唄っていましたが、何か未だもアメリカは同じことやってるみたいですね。平和の為にやる戦争が、新たな戦争を引き起こすようです。基本はマーチですが、全く関係無さそうな”365歩のマーチ”もこの辺の時代を知ってる人が作ったのでしょうね。

2011年12月14日水曜日

ラブミーテンダー (エルビス.プレスリー)


プレスリーはロック歌手でしたが、こんなバラードも歌っていました。この曲もヒットして、ミスターアメリカンの地位を不動のものにしました。むかし友人の結婚式によばれ、友達バンドで帝国ホテルのなかで余興をやったことがありました。我々のバンドは上手く終わったのですが、つぎに男優さんが自分のギターで、ラブミーテンダーを唄ったのですが、マイクがピーピーいって困っていました。♪なにやってんだ~なくなよ~♪ と聞こえました。

2011年12月13日火曜日

監獄ロック (エルビス)


日本にもやってきたロックンロール旋風、♪粋な看守の計らいで、監獄パーティがはじまった♪ なんていう日本語訳が付き、日本人歌手も歌っていましたね。紙テープ(歌手とテープでつながるため)に埋もれてグルグル巻きになって唄っていました。本場のほうはそれほどでもないのに、日本の方がテープは多かった気がします。あれは船の出港のセレモニーからきたのでしょうか。監獄ロックはあるはずの無い創作でしょう。

2011年12月12日月曜日

エルビス物語 (プレスリー)


わたしの中では日本が敗戦国だという記憶はありません。ただ子供の頃から近所に進駐軍の基地があり、物心つく頃には身近に米兵がいて、兄弟はプレスリーの音楽を聞いていた、そんな状況でした。母などの話では近くに爆弾が落ちたとか、近所の家が焼けたとか、いろいろ聴きますが、わたしはプレスリーのような外人しか知らないのに、敵陣遊びと称して、鬼畜、軍人、スパイ、などの遊びや、それを将棋にした軍人将棋などをしていた記憶があります。

2011年12月9日金曜日

ジョニーBグッド (エルビスプレスリー)


最後にエルビスを聞いてみましょう。彼も早死にしたアーティストの独りですが、彼が日本に与えた影響は大きくて、わたしが子供の頃に兄弟は皆エルビスの映画を観たり、レコードを購入していました。そんな影響もあって私も知らず知らずにエルビスを聴いていたのでした。来週はエルビスを聞いてみようと考えています。

2011年12月8日木曜日

ジョニーBグッド (ジミーヘンドリックス)


異色のジミヘン版も捨てがたいですね。ジミヘンといえば、あの伝説のコンサート、ウッドストック(木杖)の演奏を思い出します。エレキギターでアメリカ国家を派手にかき鳴らし、後に変死した疾風の男、音楽が性格を物語っています。

2011年12月7日水曜日

ジョニーBグッド (ビートルズ)


そしてビートルズのリバプール版です。アメリカンロックとグレートブリテンの違いを是非ともお聞きください。サウンド面とビジュアル面の、英国ロック、米国ロック、どちらがお好みでしょうか。

2011年12月6日火曜日

ジョニーBグッド (チャックべリー)


この曲のご本家チャック.ベリーの物です。映画の”バックトゥーザフューチャー”で出て来ましたね。本物をご堪能ください。

2011年12月5日月曜日

ジョニーBグッド (キャロル)


キャロルと言えYAZAWAのAちゃん、だけではないですね。この唄のタイトルにもあるジョニー大倉がいるんですよ。Aちゃんもドラマなんかに出演したりして、なかなかいい演技してたけど、わたしの記憶ではその昔、立松和平さんの"遠雷"という小説の映画で、ジョニー大倉がいいえんぎしてましたねぇ。ところでこの曲、いろんなアーティストがリリースしていて、それぞれ味が違うので捨てがたいんですよ。そこで今週はこの曲にスポットをあてて、あの頃を振る帰ってみたいと思います。

2011年12月2日金曜日

ファンキー・モンキー・ベイビー (キャロル)


完全無欠のロックンローラーとは、やっぱりキャロルではないでしょうか。そして矢沢のエイチャンですね。今は俳優としても活躍していますが、当時はローラーの教祖的そんざいでした。みんなYAZAWAのバスタオルを持っていましたね。

2011年12月1日木曜日

完全無欠のロックンローラー  (アラジン)


夢想花もこの曲も私の記憶ではヤマハのポプコンだったと記憶しています。あの頃は若いアーティストの登竜門でした。ヤマハが世に送り出した音楽家は相当いますが、こんなお笑いもどきのグループでしたら、今だったら吉本興業あたりのジャンルなんでしょうが、ヤマハの懐の深さを知りました。

2011年11月30日水曜日

夢想花  ( 円広志)


飛んで、飛んで、と言えばこの曲が絶対でてきます。あれだけ飛んでを連呼されると、飛びたくなくても、飛びます飛びます、なんて言ってしまいます。いったい何回飛んでいるのでしょう。このひとは現在では作曲家として演歌なんか作ったりしています。人生先はどうなるかわかりませんね。

2011年11月29日火曜日

飛んでイスタンブール  (庄野真代)


庄野真代さんの代表曲と言えばこの曲ですが、当時から何で飛んでイスタンブールなのか謎でした?。いろいろ調べたのですが、ジタンの空箱はフランスのタバコとか、知りました。でも、どうしてイスタンブールなのか分りませんでした。もしかしたら作者の語呂合わせなのでしょうか。古いものでは、その手は桑名の焼きハマグリ、とか、おそれ入谷の鬼子母神、などのノリで作ったのでしょうか。謎は未だに解けません、ああ~気になるな~。

2011年11月28日月曜日

中央フリーウエィ (庄野真代)


この中の右の競馬場とか左のビール工場とか、今は見えなくなったようですが、あの当時には高速道路の防音壁がなくて、ほんとうに滑走路のようでした。時代は変り、高速道路も明るいトンネルのようで、どの辺を走っているか分らなくなって来ました。くるま好きの私には、すごく不満で最近はなるべく一般道で景色を楽しみながら走っています。くるま好きと言うよりも風景好きなんでしょうね。

2011年11月25日金曜日

あの日にかえりたい 荒井由実


今まさにこんな気分です。帰れるものなら、あの日と言わずあの頃に帰りたいですね。丁度あの頃20代で、ユーミンと同じ玉美大生と、私の親友とWデートの思い出がありました。中央高速で相模湖方面に行く途中、カーステレオからは”中央フリーウエィ”やこの曲が流れていました。車2台で行ったのですが、途中で離れ離れになり、今みたいに携帯がないので、結局夜になって玉美大に送り再会しました。むこうも私も真面目だから何もありませんでした。

2011年11月24日木曜日

ルージュの伝言 ユーミン


魔女の宅急便に使われたテーマはこの曲でした。この曲はユーミンが結婚する前の作品でしたね。この頃の思い出がいっぱいありますが、先が永いのでぼちぼちと行きましょう。

2011年11月22日火曜日

やさしさに包まれたなら (ユーミン ・松任谷由実)


ジブリ作品でも、女の子向けがありました。魔女の宅急便とか言うので、私はテレビで放映してからのしか知りませんが、確かこの曲が使われていましたよね。でも、宅急便て言うのは大和運輸の登録標章ですよね。このタイトルを使うのに問題は起きなかったのでしょうか?、もちろん双方の宣伝になりますし、損する人は居ないようですがね。

2011年11月21日月曜日

天空の城ラピュタ テーマ


このアニメを観た時にはラピュタが何か知りませんでした。映画の解説や予告編を観て、あのおとぎ話のガリバーに出てくる空を飛ぶ島だと知りました。聴いたことはあるのでしょうが、意外と子供って聞いて居ないんですよ。それとも私だけでしょうか?、今だったらお金を払って劇場に行ったりするのに。子供の頃に良く聴いておけばよかったと後悔しています。

2011年11月18日金曜日

千と千尋の神隠し (木村弓)


そしてこの作品でも夢の中の物語を愉しませて貰いました。木村弓さんの唄とハープが印象的でした。

2011年11月17日木曜日

となりのトトロ 主題歌


ジブリ作品で私が見たのはこの作品がはじめだった気がします。いい歳をして漫画映画などと思っていましたが、大人も子供も一緒に楽しめたアニメでした。この作品から幼稚園の送迎バスが猫バスになりました。

2011年11月16日水曜日

Nausicaa (lalala)


風の谷のナウシカで、最後にオームという、ダンゴ虫の大群が集団で暴れるシーンで流れる曲が、何故か私は鳥肌がたった。夢物語のような未来の地球で、映画の猿の惑星のように昆虫が支配した世界。静かに想像してみよう。

2011年11月15日火曜日

風の谷のナウシカ  ()安田成美)


ジブリの作品でナウシカを知りました。静かに聴きたい曲です。

2011年11月14日月曜日

さよならの夏 (手嶌葵)


スタジオ.ジブリといえば、最近この歌が巷に流れているが、この曲にはまってしまい良く聴いています。このブログはなるべく昔の、削除され難い物を投稿しているのですが、それでもオリジナルの問題でかなり消されている。この問題は難しい問題ですね。この曲の起源は35年ほどまえで、動画の挿入曲でリメイクされたのです。過去には森山良子さんや倍賞千恵子さんなども歌っているのですが、やっぱりリメイク版では削除されてしまうんでしょうか?。このブログを続けるには、再更新が必要です。決して悪意で投稿しているのではないのですが、著作権の壁があるのですね。

2011年11月11日金曜日

ルパン三世 カリオストロの城 (スタジオジブリ)


ルパン3世があまりにもヒットしたので、雰囲気の違う作家同士のコラボが企画されました。もっとも当時はコラボとはいわず、合作なんて言ってましたけど。モンキーパンチさんと宮崎駿さんでは画風も違うし内容も違う。それがひとつの作品を造ると、どちらかが陽で一方が陰となってしまいます。この作品はやっぱりルパンが主役なんですね。ですから、綺麗な背景の中でのアクションがよかったのです。

2011年11月10日木曜日

ルパン三世 (テレビ挿入歌)


こちらはオープニング曲ですが、これがはじまると御飯を食べずに見ていたので、よく怒られました。この頃は今以上にテレビっ子世代で、朝起きてテレビ、学校へ行くまでテレビ、夕方御飯時間からテレビ、寝るまでテレビでしたから大変です。私は廃品屋からテレビを買ってきて、自分で修理してマイテレビを持っていましたから、チャンネル合戦はありませんでした。修理とは、高圧電器が漏れていて、火花が飛ぶので、その場所に絶縁体のお皿を入れてやったら直りました。意外と簡単で500円で買ったのでした。

2011年11月9日水曜日

ルパン三世 愛のテーマ (大野雄二)


テレビでルパン3世が大ヒットして毎週みていましたが、番組が終わっても、最後のテーマが終わるまで、何故かずーっと見続けていたのをおぼえています。本編からの釘付け状態が続いていたのかも知れません。それだけ余韻が長かった番組だったのでしょう。作者も声優も今はもういませんが、ルパン3世の物真似はずいぶん流行りましたね。本人が亡くなってからは、まさかの物真似のクリカンさんが代役をしていました。この曲、ブルコメの大野雄二さんが作曲したそうですが、同じ人の作品ですのでNHKの小さな旅のテーマと似ていますね。

2011年11月8日火曜日

ピンクパンサーのテーマ (サウンドトラック)


怪盗で有名になった実在のピンクパンサーは、壁を爆破したりして過激ですが、映画のピンクパンサーは非常に知能犯でした。うろ覚えですが、たしかクルーゾー警部という愛嬌のある助演がいて、映画をより面白くしていた。今でもキャラクターとしては、ステッカーや看板などで見かけるのですが、当時はいろんな物にピンクパンサーが出てきました。一説によると、あのピンクレディーもカクテルではなく、はじめはピンクパンサーからレディーに発想したらしいのですが、時期は一致していますね。クルーゾー警部にペッパー警部、そして怪盗ピンクパンサーにウオンテッド、これは偶然でしょうか?。

2011年11月7日月曜日

少年探偵団 (絶版)


ファントマのような怪人二十面相という物語が日本にありました。そして、登場する探偵の明智小五郎と少年探偵団がいます。こどもの頃に、すこし遠くまで遊びに行くと、夕焼けの土手の上で、誰からともなくこの歌を唄い始めて家路に着きました。♪ぼ、ぼ、僕らは少年探偵団、勇気凛々瑠璃のいろ♪そんな映像を思い出してTOUTUBE を検索しても、この歌がありません。あるのはその後のシリーズばかりで、あらためて自分が歳をとった事に驚いています。唯一見つかったのは、ヒーローシリーズのオムニバス版で、それもワンコーラスだけでした。貴重な存在ですが、これが初代の少年探偵団です。

2011年11月4日金曜日

ファントマ電光石火 (???)

そして、ルイドフィネスが脇役で出演するファントマも面白かった。日本で言うと、怪人二十面相のような奇想天外なストーリーです。むかしはファントマのお面も夜店で売っていたのですが、とにかく不気味で評判がよくなく売れなかったようです。

2011年11月2日水曜日

ルイドフィネス名場面 (ルイドフィネス)

このルイ.ド.フィネスはユーロ圏の爆笑王でしょう。日本の渥美清さんも最高に面白いですが日本の場合は下町人情とかがメインに描かれていますが、彼の映画はまるでドタバタそのものです。ドリフやクレージーのコントみたいにおかしいのです、笑ってください。

2011年11月1日火曜日

サントロペ大混戦 (ルイドフィネス)

とにかく面白いので今日もこの人でいきましょう。この他にも二ユーヨーク大混戦というのも面白いですが、当時この人の娘役のビビグラという女性が、セクシーで好きでした。映画の中で彼女が歌った”サントロペのお嬢さん”と言う曲が日本でもヒットして、この映画も大ヒットしたのです。いわば日本の寅さんの笑いをヨーロッパに持って行ったようです。このVTRには字幕がないですが、その頃は字幕で結構笑えたのです。それより動きや仕草などは万国共通なんだと思います。この俳優さん今はどうしているのでしょう、亡くなったかな?。

2011年10月31日月曜日

サントロペのお嬢さん (ビビグラ)

大笑い、といえばこの人を知っていますか?。笑いの帝王といえばチャップリンですが、この人は別格です。とにかく面白くてお腹がよじれます。チャップリンは何処か哀愁が漂いますが、この人のは爆笑そのものです。わたしが青年の頃、映画館が近所にたくさんあって、ほとんどが3本立て50円くらいでした。昼間の半分は映画館で暇つぶしできたし、喫茶店でも同じくらいの料金で、そんなにいると昆布茶が出てきます。ちなみに喫茶店の昆布茶は早く帰れという、暗黙のサインでした。この人の大混戦シリーズは最高でしたね。

2011年10月28日金曜日

男はつらいよ 名場面

とにかく大笑い出来て、ストレス発散には最高の映画でした。有名な女優さんでマドンナに成らなかった人は無いでしょう。それに、後半では甥っ子の彼女のことまでかかわって、ほんとうにおかしな寅さんでした。あれこれ書いてもしかたがないので、まずはご鑑賞あれ。

2011年10月27日木曜日

男はつらいよ (渥美清)

今週紹介した女優さんたちが、すべてかかわった映画と言えば”男はつらいよ”です。この映画は、覚えているだけで青年時代から、年二回程度で興行していると思います。いつも楽しみで,年に何度も無い大笑いの時間だったのです。僻みっぽくて惚れ易い、いつまでたっても大人になれない寅さんが、わが身に照らして大人気ない自分を振り返ったりする、いい機会であったのかも知れない。俳優の渥美さんは、決してそう言った性格ではないのでしょうが、その人が本当に存在するかのような、迫真の演技が笑いを生み出し、人の心を包んでくれるのでしょう。ほんとうにいい役者さんでした。

2011年10月26日水曜日

下町の太陽 (倍賞千恵子)

そのほかに私と縁がないわけではない女優さんがいます。むかし近所に住んでいて何度か見かけた事があります。まさにあの場所は下町で、この歌のような場所でした。おそらく、山田洋次監督は、この歌を聞いて寅さんの妹に抜擢したのではないでしょうか。倍賞さんはSKD出身でしたが、SKDとは松竹国際ダンサーズでしたか?うろおぼえです。歌も上手く踊りも出来て演技も出来る大女優ですね。

2011年10月25日火曜日

いつでも夢を (橋幸夫 吉永小百合)

世に言うサユリストという種類のファン層です。いまの60代後半のほとんどがこれにあたります。前にも書きましたが、熱狂的ではありませんが、一時期このひとに憧れて未だにファンだという人達です。最近でもテレビコマーシャルや鶴瓶さんなんかと映画を撮りまして、絶賛されています。幾つになっても綺麗で、本当に大女優です。

2011年10月24日月曜日

夕陽の丘 (石原裕次郎 浅丘ルリ子)

日本の大女優と言えばいろいろいますが、私の兄貴の時代にはこの人でしたね。日活の中でも、清純派と大人派がいまして、この浅丘さんは大人派の一番です。小林旭さんや石原裕次郎さんの相手役として活躍していましたが、私たちガキにはその魅力はまだわかりませんでした。清純派のトップ、吉永小百合さんのことも年上のお姉さん位しかわかりませんでした。

2011年10月21日金曜日

私のアイドル (松坂慶子)

今回は音楽ではありませんが、私は松坂さんのファンでした。すこし年上の世代では、吉永小百合ファンが多く、サユリストなどと呼ばれていましたが、私たちの年代では松坂さんでした。熱烈なファンではなく、誰がいいかと言われれば当然彼女を選ぶ感じです。あの舌足らずで、喉が乾いているような、フランス訛りのようなしゃべり方も魅了です。

2011年10月20日木曜日

愛の水中花  (松坂慶子)

水中花といえばこれ、テレビのドラマの劇中歌として大ヒットしました。大女優の松坂慶子さんがレオタード姿で唄う、これがヒットの大要因でしょうか。先日NHKの連ドラで、50代の貸し本屋の奥さんを演じていましたが、彼女はいい歳を取っていましたね。幾つになってもいい女優さんです、おばあさんになってもファンです。

2011年10月19日水曜日

水中花 (井上忠夫)

ブルコメの井上大輔さんも、自殺と言う天才の死に方をしましたが、この歌は好きでしたね。ポップスなのか演歌なのか、ふしぎな雰囲気の曲でした。でも、本当に惜しい人を亡くしました。

2011年10月18日火曜日

本牧メルヘン (鹿内孝)

本牧というと私的にはこの曲がすきでした。歌は鹿内孝さんという人ですが、むかし人気があった人で、ブルーコメッツが人気が出る前は、この人のバックバンドをしていた位の人です。その関係もあって、ブルコメの井上忠夫さんが曲を提供したとの事です。この曲のイメージも、本牧はリトルアメリカンですね。

2011年10月17日月曜日

再び、本牧ブルース~長い髪の少女 (ザ・ゴールデン・カップス)

柳ジョージの死にこの話はしなければならないだろう。このゴールデン,カップスというグループは、横浜の本牧に同名のクラブがあり、そこの専属バンドでありました。後半には柳も参加していましたが、時代はGSブームの終わりを告げ、彼らも解散しました。キーボードのミッキー吉野は”ゴダイゴを結成、柳はみずからのバンド、レイニーウッドを率いて再デビューして活躍していました。この曲は以前に投稿しましたが、柳の追悼として再び投稿しました。

2011年10月15日土曜日

FENCEの向こうのアメリカ (柳ジョージ&レイニーウッド)

”追悼”--- 柳ジョージが亡くなった、特別な心境である。ほぼ同年代で、デビュー当時から気になって聴いていました。一時は湘南の海の家の居酒屋で、彼の風貌が私と似ており、ジョージファンの女の娘から身代わり交際を申し込まれたりして、モテキを過ごしたのも彼のおかげである。特に親友のMKとは気が合い、よく本牧通いしたものでした。あの頃からここではガソリンスタンドはセルフで、それがカッコウよかったのです。スタンドにはノータックスと書いてありましたが、米軍の証明書が無いので通常料金でしたがね。とにかく当時の和製アメリカンの訃報であります。

2011年10月14日金曜日

花のサンフランシスコ (スコット・マッケンジー)

サンフランシスコといえば、日本語で書くと桑港だったですかね。私が中学生の頃。クラスの仲間はみんな洋楽狂いで、この手の曲をよく聴いていました。親友のK君は、深夜番組のDJに憧れて、将来は文化放送に入社して、みのもんた、みたいに成るのだと言っていました。高校も一緒だった彼は、卒業すると製薬会社に入社して、営業マンとして働き、そのうち音信普通となり、今は何をしてるやら?。夢は叶わず、彼の好きだったこの曲を聴くとそのことを思い出します。

2011年10月13日木曜日

カリフォルニアの青い空 (アルバート・ハモンド)

カリフォルニアと言えば一番に来るであろうホテルCFですが、以前に紹介しているので検索バーで移動していただき、今回はCFの青い空でいきます。青空を音で表現した曲は、幾つか思い浮かべるとアルフレッド、ハウゼの碧空とかベンチャーズの北国の青い空などが浮かびます。この曲たちも以前に取り上げています。今回のCFの青い空は、それらとは違いメジャー進行で明るいのです。青空の二面性を紐解くと、どこまても引き込まれる神秘性と、何処までも陽気な精神的快楽です。とにかく健全な人間で青空の嫌いな人はいないと思います。

2011年10月12日水曜日

夢のカリフォルニア (ママス&パパス )

アメリカン.ドリームとは少し違うかも知れないが、近い感じもあるこの曲は、わたしの多感な青春期にかなりの感動を与えてくれた。最初に12弦の生ギターで導入部が響き、コーラスで歌がはじまり、怒涛のように進行してゆく。あの盛り上げ方はかなり熟練した達人たちだ。その名もママ達&パパ達だから熟練はあたりまえです。なにかこの歌が流れると、どんな夢も叶うような気がしてきます。あの頃の日本もアメリカも希望に燃えていました。

2011年10月11日火曜日

ビーナス (ショッキング、ブルー)

"恋よ×3”の間奏を聴くと何故かこの曲に行き当たる。どこか連想してしまう要素があるのでしょう。そしてこのグループ名のショッキングと言う言葉が、いつしか独り歩きしはじめ、ショッキングカラー成るものが流行したのです。街には度派手な色のファッションが氾濫し、眼がチカチカして大変でした。なかでもショッキングピンクというのは、かなり興奮いたしましたし、ショッキンググリーンは、現代でも交通指導員のブレーカーなどで活躍しています。

2011年10月7日金曜日

恋よ恋よ恋よ (ザ・タックスマン)

このバンドのおかげでタックスが税金だという事を知りました。この人たちは税務署員ではありませんが、深夜放送でヒットしましたね。♪俺には何も無い、お金も無いけれど♪、ですから税金は払えません、と言う歌ではありません。深夜遅くなるとラジオからこの曲が聞こえてくると、ああ、夜中だな~と実感するのです。

2011年10月6日木曜日

若者たち (ザ・ブロードサイド・フォー)

テレビの白黒放送が当たり前の時代に、すごい人気の番組がありました。親の無い家族でそれぞれががんばって、生きている様を描いたストーリーだったと記憶していますが、その番組の主題歌がこの曲でした。うろ覚えですが”北の国から”の黒板五郎さん役の田中邦衛サンが出演していたと思います。我々の昭和の生活をそのまま、いい意味で貧乏ったらしく展開していました。この歌のボーカルには、たしか黒澤明監督の息子さんが参加していたようです。今でもたまに歌われて居ますが、今の時代には嘘っぽい歌になりました。

2011年10月5日水曜日

白いサンゴ礁  (ズー・ニー・ヴー)

いろいろなバンド天国だった時代に、真面目な恋歌を歌ったグループもありました。でも、未だにバンド名の意味が不明です、ズー・ニー・ヴーとは何でしょう、ブーフーウーという豚が主人公の漫画がありましたが、ズー・ニー・ヴーは解りません。でも歌の方はさわやかで、南の島で恋をする二人の風景が見えてきます。そして、この曲の作詞家は阿久悠さんで、会心の出世作だったんです。ながいあいだヒットしていた記憶がありますが、次回作がイマイチのようで、いつの間にか萎みました。はじめがでかすぎたようです。

2011年10月4日火曜日

海は恋してる (ザ、リガニーズ)

おとぼけソングの代表のなかには、名前までふざけたグループがいました。私が高校生くらいで深夜放送を聞いていた頃ですから、40年以上前になります。ザ、リガニーズというグループ名なんですが、ザ、ザリガニとかザ、ロブスターならわかりますが、すべてでザリガニ達というなまえです、完全に駄洒落ーズです。歌の内容もあほっぽい内容で、海も恋するのかな?とか、馬鹿馬鹿しいネタでございまして、はい。こんな歌が流行ったのも平和だった証拠でしょうね。

2011年10月3日月曜日

ケメ子の歌 (ザ・ダーツ)

われわれの年代でケメといえば、やっぱりケメ子の歌だと思います。ほんとに平和を絵に描いたようなふざけた歌で、フォークだか歌謡曲だか訳の解らないジャンルのバンドが多く出て来た時代でした。お手々つないでハイキング、大きなお結び10個持ち、ケメ子が8つに僕2つ、何てふざけた歌詞なのにヒットしたのです。この時代はグループが大量にデビューしては消えてゆきました、一発屋ではなくても2~3曲で消えたグループも多かったのでした。いわば大学生の小使い稼ぎのようなものがほとんどでした。

2011年9月30日金曜日

通りゃんせ ケメ(佐藤公彦) 

フォーク界の郷ひろみとか言われ、女性ファンを獲得した歌手がいた。私が見たところは三好英二という感じでしたが、この頃のファッションそのものでした。今生き残ってる人はイルカくらいでしょうか。オカッパでオーバーオールのジーンズをはいて、それもベルボトムの裾の広いズボンです。まるでチビッコスタイルばっかりの一時期がありました。わたしもそんなスタイルをした思い出がありますが、今考えるとはずかしい。

2011年9月29日木曜日

野菜が食べたい  ( ピピ&コット)

変態フォーク全盛の頃、ひとつのグループがやけに売れてきた。お笑い出身のようなコミックバンドで、真面目にやれ、と言いたくなる様なバンドでした。とくにグループのリーダーが、板さんと呼ばれ、今で言うとオードリーの春日って感じかな。こんな歌でも平和なバブル前の穏やかな時代、ヒットしたんですね。板さん板さん、と囃し立て、よいしょの歌の見本でした。

2011年9月28日水曜日

雨あがりの夜空に (RCサクセション)

先日亡くなった忌野清志郎がボーカルをしていたRCサクセション、このグループのギター担当が、あの古井戸の仲井戸氏なのです。清志郎ブームが起きたときには古井戸を解散し、サクセションに合流、この曲も参加していたと思う。なにか意味深な歌詞でファンも多かったこの曲を聴き、楽しい曲だと思いました。清志郎は反原発の曲も唄っていますが、原発事故の前に亡くなってしまい嘆いているかも知れませんね。

2011年9月27日火曜日

さなえちゃん (古井戸)

泉谷しげるが春夏秋冬を歌っていた頃、まさにフォークブーム真っ只中でした。テレビ番組でもフォーク番組があって、中でも私が良く見ていた番組で人気があった古井戸というグループがいました。今で言うコブクロみたいな感じで、仲井戸というギターの上手い人がいたのでした。この”さなえちゃん”という歌は、ふざけ半分に唄ったのが発展してヒットしたのです。なにか意味があるようで無い様で、結局最後には、みんな消えてしまうと言うばかばかしいネタでございます。要するに授業中に勉強していないと言うことでした。

2011年9月26日月曜日

春夏秋冬 (泉谷しげる)

タクローがフォークの特攻隊だった頃、地味な存在であったが過激な性格で売り出した歌手が居ました。この歌は彼の作品の中でもおとなしい曲で、意外と大ヒットしました。こういう曲も作れるのに、過激さが売り物で、しょっちゅう喧嘩を売っていた泉谷しげるでした。最近は、役者としてもいい味を出していますので、役者の面でいうとタクローより上になりました。詳しいことは知りませんが、足がお悪いようですが、失礼ながらそれも役の上で味になっているようです。四季というのは良くあるテーマですが、彼の歌には四季がないのです。

2011年9月22日木曜日

たどりついたらいつも雨ふり  (ザ・モップス)

タクローが提供した曲でヒットしたGSの曲がありました。この曲もタクローなりの理屈っぽさで固めた、思わせぶりな曲です。現実の旅と精神世界の旅をダブらせ、そこまで行っても満たされない、いつも欲求不満だって怒鳴るのです。この歌を唄ったザ、モップスのボーカルであった鈴木ヒロミツ氏も、若くして亡くなってしまい、この歌の生命も終わってしまった。歌手と歌は一心同体ですから、世に出た時点で作者から巣立っていきます。ですからこの曲はもうタクローの物ではなく、鈴木ヒロミツのものなんです。

2011年9月21日水曜日

今日までそして明日から (吉田拓郎)

人間なんて、所詮いつかは消えてなくなる。何て言いながら、とりあえず”私は今日まで生きてみました”という感じです。拓郎のガナリと囁きの静かな方の歌ですが、やっぱり拓郎の歌は理屈っぽいのです、だから拓郎なんです。自分は理屈よりもペーソスのほうが好みだったので、井上陽水や小椋圭派だったのですが、レコード店(死語)に行くとタクローの方が圧倒的に前面に有るのです。メジャー、マイナーで行ったらタクローはメジャーだったのです。反戦歌だって歌いますからね。余談ですが”夏休み”という曲は原爆反対の歌なんです、知ってますか?。

2011年9月20日火曜日

人間なんて (吉田拓郎)

人間と言えば、タクローの”人間なんて”と言う曲を思い出した。この曲は、ライブの時間稼ぎでもあり、終わろうとすればすぐ終わる。この辺りからタクローはエレキを持ち出し、フォークからロックに以降し始めた。いわばフォークロックである。かなりのガナリ声でしぼりだす声が、みんなを引き寄せたのだろう。バックのギターは、完全にディープパープルのハイウエイスターを弾いているが、観客は気付く様子もない。ここに来ている観客はフォークのファンであるからハードロックはわからないかもしれない。人間なんてららら~ららららぁ。

2011年9月16日金曜日

人間の証明 テーマ曲 (ジョー山中)

角川文庫の企画物映画のはじめでしょうか。最初に入る語りで、僕の麦藁帽子、何処に行ったのでしょうか、霧積の谷底に落ちたあの帽子。と言う台詞が思い出されます。やはり私が少年の時、亡き父に連れられて横川の駅から霧積温泉まで、歩いて雪の道を行きました。雪道で滑って転び、私が谷底へ落ちるところでした。胸のポケットにあったチョコレートが、勢い良く谷底に滑っていきました、父はそれから私を放さずに歩きました。温泉について父は新しいチョコレートを買ってくれましたが、今考えるとあのチョコレートが私だったら、父は如何したのでしょうか。いまでも思い出しますあの日の事を。

2011年9月15日木曜日

転校生 (角川映画)

この年代くらいでしょうか大林監督が脚光をあびて、広島県の尾道が有名になって観光客が飛躍的に増えたのでした。はじめてこの映画を観たときに、感情が入れ替わる、心が他人の中に入る、なんて夢物語のような超常現象を題材にした映画が流行りました。時間とか空間ならまだしも、人格が入れ替わりまして男女が逆転するなんて。これが本当だったら大変な事ですよ、歳を取ったら自殺志願の若者に体を貰うことだってありうる。それとか、自衛隊が戦国時代に迷い込むなんて奇想天外な映画まで出来ました。あれってバブルの好景気の発想なんでしょうか。最近は時間を越えるのはクレヨンしんちゃんくらいです。

2011年9月14日水曜日

時をかける少女 (原田知世)

おそらくこの映画の原作者も、時空間ことで夢を巡らせた一人ではないでしょうか。この映画の中で、ラベンダーの香りがキーポイントになるのですが、わたしもラベンダーで実験してみたところ、不思議な事が起こりました。あまり口外しないほうがいいのですが、その実験とは、ラベンダーのエッセンスをタバコに染み込ませ、乾いたところで一服、しばらくすると、何か凄く心細くなり夜も怖くて寝られません。一人ぼっちが怖くて怖くて仕方がないのです。おそらく精神状態に何かが影響して不安になるのでしょうが、大変な発見をしてしまったよぷで封印していました。このブログを観た人にだけ内緒で教えます。

2011年9月13日火曜日

不思議な少年(boy wonder)

この映像をずいぶん捜したのですがYOUTUBUにはありませんでした。唯一見付かったのは、この番組の原作らしいコミック本を紹介する映像でした。私が子供心に記憶したものは、主人公の少年が時間よ止まれと言うと、周りのもの全てが止まってしまい、その間に事件を解決すると言う物語で、白黒画像でした。今のわたしは大人になって良からぬ想像をしてしまいますが、当時は少年ですので、真剣に世の中の為になるように時間が止まったらいいと思いました。それがきっかけで、後にアインシュタインなんかに興味を持ちました。

2011年9月12日月曜日

トワイライトゾーン (TVテーマ)

このテレビ番組は日本では”ミステリーゾーン”というタイトルで放映されていました。原題はトワイライトなんですが、日本人には馴染みが無かったのでタイトルを変えたのでしょう。今ではよく知られたトワイライト、夕暮れ時の明かりが灯る前の薄暗がりとでも言いましょうか。いい言葉が日本にはあるのです、黄昏です。日本人は黄昏に恋人同士がいちゃつく、なんて創造しますが、西洋では不思議な異空間のイメージがあるのです。国が違うといろいろちがいますね。このタイトルの雑誌もありましたが、そこにはあの麻原ショウコウ氏が載っていた記事もありました。

2011年9月9日金曜日

アウト・オブ・リミッツ (ザ・ベンチャーズ)

このメインになっている戦慄は人の恐怖感を増幅させるようです。この曲もそれを繰り返し奏でていますが、世にも不思議な物語にしても、その続編のミステリーゾーンという番組でも使っていた手法です。ミステリーは当時日本向けにタイトルを変えたようです。本当はトワイライトでしたが、当時の日本ではトワイライトよりミステリーのほうが理解し易かったのでしょう。この旋律は円谷プロのウルトラQにも使われましたし、あのベンチャーズまで使いました、アウトオブリミッツ、限界を超えたとか訳すのでしょうか。

2011年9月8日木曜日

世にも不思議な物語

このテレビ番組を知っているでしょうか?。子供心に毎週、眠れぬ夜が来るのです。むかしは、家族の楽しみといえばテレビですが、末っ子にはチャンネルの権利は無く、上の兄弟の好みで選ばれる。この番組を9時ごろ観て、布団に入っても怖さが残り眠れません。あのオープニングのおじさんの声が頭から離れないのです。そして、あの奇妙な音楽も寒気がしてしかたありませんでした。かと言って、昔の家なんてものは長屋のようなもので、テレビがある部屋しかいるところが無いので、震えながら観ていました。

2011年9月7日水曜日

ウルトラQ (テーマ曲)

ウルトラという言葉をはじめて聴いたのは、東京オリンピックの体操で女子のチャスラフスカ選手の演技が、とても難しいのでウルトラCと呼んだのが最初に思う。そのときはウルトラブームで、すごい事を何でもウルトラを付けた。それ以前はスーパーであったのがウルトラと呼ばれ、今では、超ヤバイになってしまった。いま造るヒーローだったら”チョーヤバマン”でしょうかね。このテレビ番組はウルトラマンが出来る前に、不思議な出来事をオムニバスで放映したもので、モノクロームだったと思う。

2011年9月6日火曜日

ウルトラセブン (円谷プロ)

セブンブームの最中にウルトラ7も生まれました。ウルトラマンの次回作に悩んでいた円谷プロは、世のセブンブームに乗っかりセブンと名付けたのです。しかし、セブン以降8や9はありませんし、123もいません。ウルトラの家族が集合してもセブンだけ浮いてしまいました。その後の父や母と太郎はつながりがありそうなんですがね。変身もはじめは懐中電灯みたいな器具でしたが、セブンはメガネでした。そのうえ頭のブレードをブーメランのように飛ばし、怪獣を真っ二つにする技を持ち、ウルトラ兄弟の中では異色の存在でした。

2011年9月5日月曜日

ヤングセブン (東芝)

そのむかし、私が子供の頃にトランジスタという半導体が実用化され、日本でも携帯ラジオが発売されました。その時のコマーシャルで”ヤング7”という曲が使われました。テレビコマーシャルで今でも憶えているシーンが、三角帆のヨットを上空から撮影して、そのBGMとしてヤングセブンが流れたのです。その後セブンブームが来て、タバコのセブンスターやウルトラセブン何かが生まれたのです。いまでは安価なトランジスターラジオも当時は高価で買えませんでした。ちなみに、それから小さい人のことをトランジスターといい、反応の鈍い人を真空管という様になりました。

2011年9月2日金曜日

エイトマンの歌 (克美しげる)

ハヤブサのような超人漫画でエイトマンなる人物が活躍する番組もあった。歌はまるで高校野球の応援歌のようですが、演歌の歌手が歌っていた。この超人がすごい速さで走るのだが、その足が見えないくらい速いので、画像の中では丸を描いた感じで表現している。何故空を飛ばないのか、そんな事を考えると、もしかしたら作者は人間に近ずけたかったのではと考える。子供だましから脱却して、人の持つ力を増幅した超人像を描きたかったのかも知れない。

2011年9月1日木曜日

海底人8823 (テーマ曲)

宇宙人の反対に海底人なんていうのもいましたね。いま話題の惑星探査機ハヤブサ、がブームですが、その昔8823はやぶさ、という海底人で正義の味方という特撮番組がありました。原作は漫画だと記憶していますが、これは実写番組ですのでかなり無理もやっていました。特に水中撮影を極力排除するが、時には海底も造らなければならないので苦労があったようだ。それに8823でハヤブサとは、最近の634で武蔵のようですね。

2011年8月31日水曜日

ナショナルキッド (テーマ曲)

宇宙人といえば、その頃は何故かマントをしていました。地球防衛軍の宇宙人もそうでしたが、ナショナル電器の回し者のようなヒロー”ナショナルキッド”がいました。どこから来るのか分かりませんが、どう見ても地球上の人間ではありません。ウルトラマンなどはM38星雲から来たと名乗っていますが、キッドは分かりません。それに、大人なのにキッドとは何でしょう。空気の無い宇宙空間でマントをひるがえし、スーパーマンのようでもあり、とり止めも無いヒーローでした。楽しければOKなんでしょうか、子供だましという奴ですね。

2011年8月30日火曜日

海底軍艦

この映画も近所に映画館があった頃上映されました。私の歩いていける範囲でも5~6軒の映画館がありましたね。銭湯なみにあった映画館も、今では繁華街に行かなければ無くなりました。小学生まで女湯に入っても何ともありませんでしたが、この映画の中で女王が着物をさっと脱ぎ捨てるシーンでドキドキしたのは何故でしょうか。カメラが切り替わり見えないのですが、心臓が鼓動を早めてしまったのです。もしかしたら、それが目覚めだったのでしょうか、子供から青年に変わる、変わり目だったのかも知れません。

2011年8月29日月曜日

地球防衛軍

宇宙映画ですごく思い出すのが、この地球防衛軍です。いまみんなが宇宙人の真似をしてしゃべる時、喉に手を軽くぶつけて振動させる遊びがありますが、これがこの映画に登場する宇宙人なんです。「ワレワレハ ウチュウジンだ」というあれですね、おかしな話でした。日本語を話すし、生まれた星なら分かりますが宇宙人だ、というのも変です。過去の戦争で我々は地球人だと言った話は無く、日本の戦国時代でも我々は日本人だ何て言いませんよね。登場するモゲラという怪獣は、タモリさんにいじられて、ハナモゲラなんて言われてしまいました。

2011年8月26日金曜日

宇宙家族ロビンソン (テーマ曲)

ロビンソンで思いつくのはロビンソンクルーソーではなく、”宇宙家族ロビンソン”というアメリカのテレビ番組です、毎週楽しみに見ていました。中でも登場する家族と同乗していた博士という人がいて、いろいろ掻き回してストーリーを面白くしています。そして、そこに出てくるロボットを父が買ってくれました。ブリキのおもちゃで、後に分解したところ頭の中に火花が見えるのですが、それはヤスリの丸いのが回転して、そこへライターの石が擦れて火花がでていたのでした。今から考えると危険なおもちゃでしたね。

2011年8月25日木曜日

ロビンソン (スピッツ)

曲とグループのイメージが被るということは良くあることですが、私の中では何故かスピッツがフォークソング全盛期のグループのような気がしてしょうがありません。他にもNSPとか古井戸とか、知らない人も多いのではないでしょうか。もちろんスピッツはずっと後のグループですが、出す曲がほとんどあの当時のフォークソングに歌われていた、甘酸っぱい青春の恋愛を感じさせるからなんでしょう。曲に唄われている人物像が昭和そのものなんだと感じます。どっちにしても、昭和が良かったと言いたい訳です。

2011年8月24日水曜日

東京 (マイペース)

東京といえばそのむかし、”東京”という曲がありました。マイペースというフォークグループが歌っていましたが、この曲を聴くとその後にデビューしたスピッツというグループを思い出すのです。なぜなのか、理由は分かりませんがどこか似たところがあるような気がします。逆に、スピッツの曲を聴くとマイペースを思い出すのかも知れません。なぜそうなるのかは深く考えたことはないのですが、条件反射のように記憶が混ざるのです。人生の中で、そういうことって結構ありますよね。

2011年8月23日火曜日

東京 行進曲 (佐藤千夜子)

行進曲でもっと古い、私がこの世に出現する前の曲なんですが、正確には行進曲ではありません。これは流行歌というジャンルですね。なぜこの曲が”私の名曲”なのかというと、私より前にこの世に生まれ、自分の見たことも無い古い東京を想像させてくれるからです。もちろん想像ですから現実とは違っているかも知れませんが、想像の世界の東京はセピア色ではありません。色鮮やかな舞踏会やダンスパーティーの鹿鳴館、そんな光景を勝手に夢の中に配置して楽しみます。古き良き時代は遠くなりにけり。

2011年8月22日月曜日

ラデツキー行進曲 (Georges Pretre)

こどもの頃から運動会やスポーツニュースなどでよく聞く曲なのに、大人になるまで曲名を知らなかったこの曲は、ブラスバンドの連中は知っていたのでしょう。それなのに聞かなかったのは、ブラバンの連中との交流がなかったのと、行進曲に興味が無かったからです。中学の頃に鼓笛隊の先頭で杖を振る指揮者の授業があったのですが、どうも上手く出来なくて、それがトラウマでチンドン屋見たいに思い込み、行進曲も好きになれませんでした。今聞くといい曲なんですがね。

2011年8月19日金曜日

軍艦行進曲 (軍艦マーチ)

とにかく、昭和の中頃は戦争も終わり、高度成長のニッポンの娯楽第一位はパチンコでした。ニッポンで生まれたゲームは、名古屋の工場で作られたベアリングの鋼球と、温室栽培が多かった愛知で、戦時中壊されないように、防空壕に保管されていたガラス板で出来たのがパチンコでした。そして、敗戦で役に立たなくなった”軍艦マーチ”もパチンコ屋で蘇えったのです。なにしろ、この曲が掛かるとドンドン出るのです。というのも、当時は手動式の台でしたから、このリズムがピッタリ合うので、店でも続けて流さないで1時間に一回、特出しの時間をもうけて流していました。

2011年8月18日木曜日

クワイ河マーチ  (ミッチミラーオーケストラ)

戦場にかける橋、というタイトルの映画の挿入歌でした。口笛を吹けるようになったのは、この曲のおかげだと思います。しかし大人になるまでこの映画を観たことが無く、会社で万国(タイ)に社員旅行するまで、この地域が舞台の物語だとは知りませんでした。クワイ河に橋を架ける話だとも知らず、ただ口笛だけは上手に吹けました。タイトルのクワイ河は、アメリカあたりにあるものと思い込み、成人してからも知らずにいた事が、後に映画関係の人達と酒の席で恥を掻く事になるのです。なるべくなら知っているに越した事は無いですね。

2011年8月17日水曜日

明日に架ける橋 (サイモン&ガーファンクル)

明日とかあしたとか言い方は違いますが、とにかく寝て起きると明日のような観念です。それが、夜中に寝ても朝方まで遊んで、それから寝ても眼が覚めると明日なんです。もし、眼が覚めなかったら恐くて眠れませんよね。人は明日に希望を持ちます、だから安心して眠れるのです。この曲の中の橋は眠りなのかも知れませんね。人生の三分の一は眠ります、という説が本当でしょうか。眠っても夢の中で思い出を作ったり、愛したり、泣いたり、怒ったり、しています。眠りは人生から除外してはならないのです。眠っているあいだ、わたしはよく空を飛びます、まるで別世界です。

2011年8月16日火曜日

明日がある (坂本九)

坂本九サンと言えば”上を向いて”ですが、その曲は以前にアップしているので検索バーで調べてください。彼の名曲はけっこう多いのですが、この曲にはいつも励まされているので、くじけそうな時は思い出して口ずさんでいます。でもそろそろ、明日がある、と言っていられない年齢になってきました。この歳になると、明日は無いかもしれないと思うようになり、時間がいっぱいある若者がのんべんだらりと生きているのを見て、勿体無い気がしてきます。とは言いつつも、自分が若いときは毎日酒を飲みまわり、そうとう時間と金を無駄にしてきたのですが、過ぎたものは帰ってきません。

2011年8月15日月曜日

見上げてごらん夜の星を (坂本九&平井堅)

毎年この時期になると必ず思い出すのがあの事件である。私が知ったのはテレビのプロットニュースでした。ちょうど懐かしのポップスという番組の最中でした、そして臨時ニュースとなって、日航機の123便が行方不明と語っていました。乗客の中に歌手の坂本九さんが含まれているとの事でした。それからと言うもの私も家族もテレビに首っ丈で、ちょうどお盆休みでしたので消息と安否が気になり深夜になって群馬県に墜落したと分かりました。あの悲しい事件はこれからも忘れる事はないでしょう。

2011年8月12日金曜日

再開します

暑い日が続きますね。さて、そろそろ再開しましょうか。来週のはじめからまた頑ばります。

2011年8月1日月曜日

すこしお休みします。

つかれました、少しお休みをします。

2011年7月29日金曜日

水族館 (サンサーンス)

サンサーンスが続きますが、こんな曲もありました。水族館と言うタイトルに、このあいだ行った北海道を思い出しました。旭川にあります旭日山動物園の水族館併殺の動物園では人気者のゴマフアザラシが水槽の中を縦横無尽に泳ぎ廻り、フロアーにある円筒形の水槽トンネルを行き来すると、歓声があがります。水族館には魚も居ますが、この水槽には魚はいません。一緒にするとアザラシが食べてしまいますからね。海の中では一緒の生き物も水族館では種類ごとに分けないと、とんでもない事が普通に起こるのです。

2011年7月28日木曜日

動物の謝肉祭 (サンサーンス)

謝肉祭とは日本では馴染みが無いかもしれませんが、呼び名を変えればよく聞くカーニバルです。日本ではサンバカーニバルを初めとするお祭り騒ぎの事を言いますが。西洋では食に感謝する儀式のようです。謝肉祭がカーニバル、ハロゥインがお盆でイースターが花祭りかな?。考えてみると宗教的儀式だが、西洋も東洋も基本的には変らないというのが分かります。ベネチアで仮装してお面をかぶるお祭りも謝肉祭だと言う事です。国が変ると変化して、日本ではカーニバルは浅草と言う事になってきましたが、あれは南米の謝肉祭ですね。

2011年7月27日水曜日

白鳥 (サンサーンス)

ある意味白鳥と言えばこの曲が二番目にきます。なんと落ち着く旋律でしょう、心が癒される思いです。そして、やっぱり映像が浮びます、白鳥が静かに湖畔を泳いでいます。白鳥の湖と違うのは、心が落ち着くのです、底知れぬ安堵感があります。チャイコフスキーの旋律は、これから何かが起こりそうな予感が感じられますが、サンサーンスの白鳥は実に穏やかでスイスイと湖面を泳ぎます。音楽が絵画の如く感じられるのは、人間の感情がすべて一体性があるからでしょう。花や鳥や風と月、すべて頭の中で創れます。

2011年7月26日火曜日

白鳥のまごころ (ブルースター)

この子は知る人ぞ知る、寺内タケシのコピー少年です。バックバンドは都我都我というセミプロのようですが、YOUTUBEを見るまではこの少年の存在は知りませんでした。私がこの少年の歳の頃は、兄貴のもっていたウクレレをコードも分からず、ペロンペロンと弾いていた頃です。こんな少年の頃から、私がはまったエレキギターを、エコーをギンギンに効かせて弾いてす。まったく羨ましいかぎりです。”白鳥のまごころ”とは意味深なタイトルですが、詳しい事はしりませんが。旋律が気に入って時々聞いています。

2011年7月25日月曜日

白鳥の湖

スワンと言えば白鳥ですが、白鳥で真っ先に思い浮かべるのは”白鳥の湖”です。この中の特に情景と言う章で浮んでくる湖が、わたしの理想の湖像であって、外国は別にしては北海道の湖に確定しました。霧深い湖の畔、一羽の白鳥が悲しげに泳いでいる、誰しもぐっと来るはずです。そして、そこに秘められた悲しい物語に興味津々で、とても気になるのです。わたしはオデットとジークフリートの、素敵な恋物語があるのを後に知りましたが、音楽だけで情景を思い浮かべる事が出来ました。今でも思い浮かべるのは北国の屈斜路湖や、摩周湖などです。

2011年7月22日金曜日

スワンの涙 (mi-ke)

この曲の中に♪遠い北国の湖に♪と言うフレーズがありますが、私は当時から北国に憧れていました。何か北国に対して特別な恋慕の気持ちを持っていました。何時か行ってみたい北国の湖に、歌の中で行くという、消化不良な状態でいたわけです。最近になってやっと北海道へ行けまして、やっと消化不良状態を解消して、北国の湖の神秘的な雰囲気に囲まれ、静けさの素晴らしさを味わって来ました。また反面、都会の雑踏が思い出させるような寂しさも感じました。

2011年7月21日木曜日

朝まで踊ろう (mi-ke)

この曲は、今は石原軍団の大番頭、舘ひろしさんが俳優になるまえに、”クールス”というバンド活動をしていた頃のヒット曲です。それをかわいい女の娘がリメイクして聞かせてくれるのですから(惚れてまうやろ!!)ですね。この他にもGSやフォークなんかをパロディにした曲や、当時のボーカルとコラボしたりで最高でした。でも、また時が過ぎ、mi-keも何処かに消えてしまいメインボーカルの宇徳ちゃんだけが頑張っている。むかしTVで”不思議な少年”という番組がありました。「時間よ止まれ」と叫ぶと時間が停止してしまうのです。出来る事なら時間を止めて見たいですね。

2011年7月20日水曜日

思い出の九十九里浜 (mi-ke)

以前にも書いた事があるが、九十九里浜には生死を分ける思い出がある。忘れもしない、テストドライバー仲間とサーフィンに行ったのです。私は無経験で、波に乗る時にパドリングと言って、板の上で波の速度まで漕ぐらしいのだが、全然知らなかった。友人が持っていったイギリス国旗のデザインボードで、沖に向かって一目散。友人達が小さく見える、ここからカッコよく浜に戻る予定が、無情にも波は通り過ぎてゆく。でも、神は見捨てなかった、予想外の大波が私を巻き込んで浜に打ち上げた。よかった、生きている、助かったのだった。

2011年7月19日火曜日

ブルーライト ヨコスカ (ミケ)

ヨコハマとかヨコスカとか言うとこの曲を思い出す。往年の大ヒット”ブルーライトヨコハマ”のなんちゃって版である。暑い夏が続くので、すこし爽やかなmi-ke特集でもやろうかと思います。20代後半だったか、悪友のKとIの3人でよくヨコスカ行ったり、青山辺りでナンパしたり、引っ掛けた女達と九十九里浜に行った思い出とか、どんどん蘇えってくる。それは、走馬灯のようにグルグルして思い出すのだ。あの頃はほんとうに楽しかったし、将来の心配も無く、若い者にはバラ色の時代であった。今の若い人は気の毒である、と言うのも就職難や震災、原発事故など喜べない心配事ばかりだから。

2011年7月15日金曜日

港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ (ブギウギB)

このグループが出現して車屋さんのシンボルであるツナギ作業服がメジャーになりました。わたしはH技研のテストドライバーをしてた頃のツナギを持っていました。その後の会社の社内旅行で、余興のひとつで、この曲をやったのです。浴衣の中にツナギを隠し、4、5人でサプライズ演奏。浴衣を脱ぐとツナギで、ギターを抱え唄が始まりました。ネタは当時キャバレー狂いをしていた、旅行に来なかった技術部長の浮気でした。社内では噂になっていたゴシップネタなので大爆笑、おまけに喧嘩がはじまり、最後にドッキリカメラの看板を出して、またまた大爆笑で、ホテルの板前まで見物に来るくらい好評でした。

2011年7月14日木曜日

横須賀ストーリー (山口百恵&ブギウギB)

清純で、チョット不良を匂わせ、不思議な魅力の百恵さんでした。わたしの好きな曲の中で、特に好きなのがこの曲です。これっきりを繰り返し何だろうと思ったところでストーリーがはじまる。そして、作曲者が作詞者の旦那さんで、不良の権化の様な要望の竜堂さん。雰囲気抜群の二組の個性がコラボした、めずらしい音源があったのです。宇崎さんの巻き舌に影響されてか、意識してかわかりませんが、百恵さんの巻き舌には痺れます。引退した百恵さんは静かに暮らしてください。でも思い出の中の百恵さんには登場していただきます。

2011年7月13日水曜日

青い果実 (山口百恵)

これは彼女のデビュー曲でしたか?、よく憶えていませんが、この曲の詩は衝撃的でした。この曲を書いたのは私の兄弟子の千家和也さんでした。なかにし礼先生の内弟子で私は外弟子ですから、私が勝手にそう思っているだけですが、同じ師を持つもの同士です。この詩は♪あなたが望むなら、わたし何をされてもいいわ♪こんな不謹慎な事を、と言われそうな曲を中学生の女の子に提供するのですからビックリしました。しかし、結果として大ブレークのきっかけになったのは間違いありません。今現在でしたら、女の子は平気で男言葉をつかい、友人をテメーなんて言っていますが、当時は大変な事でした。

2011年7月12日火曜日

狂った果実 (アリス)

昨日と同名の曲ですが、おそらくあの作品を意識して創られたのでしょう。私が飲み歩いていた頃、この曲が流行っていました。よく飲みにいったサパークラブで、エレキの弾き語りの人が私と意気投合して、店が閉まった後、新宿に飲みに行こうと誘われ、真夜中に新宿のステージ付きのクラブへ行きました。そこで彼に誘われて”アリス”を3曲ばかり歌いました。彼がべーヤンで私がチンペイ、バンドはラテンバンドでしたが上手でした。真夜中のライブは好評で、アンコールまで要望され、この曲を唄いました。拍手喝采の夜でした。

2011年7月11日月曜日

狂った果実 (石原裕次郎)

さすがにこのへんの映画は観た記憶がありません。兄の年代の人は観たと思います。わたしが大きくなってから映画の事や”太陽族”という言葉も知りました。不思議なもので、この当時は、ちょっと不良な正義の若者がもてていたようです。言わばガキ大将が大人になったような存在だったようです。石原兄弟が脚光を浴びた作品という事で、映画も天然色ではなくモノクロですね。ちなみに、私の時代の族とはカミナリ族にみゆき族、六本木族なんて言うのもありました。その後にサーキット族とかタケノコ族なんて言うのも出て来ましたね。

2011年7月8日金曜日

真夏の果実 (サザンオールスターズ)

唄はサザンの桑田さんですが、昨日の映像は長門さんと南田さんの若い頃の作品です。なぜそんな話をするかと言うと、長門さんの若い頃の容姿に、桑田さんが激似であることを知っていますか本当に良く似ています。話は変わりますが、長門さんと南田さんの愛情物語は今年完結してしまいましたね。ほんとうに羨ましいくらい仲の良いご夫婦で、天国でも仲良くやっているでしょうね。桑田さんも原ボウと幸せにして欲しいです。桑田さんも病気が良くなってよかったです。そろそろ梅雨も明けそうなので雨から真夏に変わりましょう。暑い真夏はヤング(死語)の季節です。

2011年7月7日木曜日

雨のブルース (淡谷のり子)

まさかこの曲が流行っていた時代には、赤ん坊だったと思いますが、テレビの物真似番組では、淡谷さんのこの曲は、真似しやすいのか、子供らまで真似をしていたのです。おかげでこの曲を覚えてしまったと言うことです。ものまねのコロッケさんなんか未だにやってますよね。もともと声楽家の淡谷さんですから、オペラの蝶々婦人なんか歌う歌手だったのに、流行歌を歌う歌手が不足していて、音楽関係者は宴会に呼んだ芸者さんまで歌手としてデビューさせた時代でした。その頃の若者でしたら、希望はあったかもないかも?。

2011年7月6日水曜日

雨の日のブルース (渚ゆう子)

どう聞いてもこれはブルースではありません、ポップスです。何ゆえブルースと付けたのか、それは詩の中にブルースがあるだけです。♪暗いブルースを口ずさみ♪舞台は青山あたりの坂道にあるクラブでしょう。要するにここでのブルースは小道具です、”よこはまたそがれ”みたいにブルースがあるだけで絵になるのです。むしろ”よこはまたそがれ”のほうがブルースっぽいですね。この曲の凄い所は、その当時クラブと言うのはクに強調してクラブと呼んでいたのが、最近はクよりも後のラブを強調して呼んでいるのです。当時この曲を聞いて違和感があったクラブも今は全然違和感がありません。時代を先取りしてたんですね。

2011年7月5日火曜日

雨のバラード (湯原昌幸)

GSブームというのがありまして、これはガソリンスタンドではないのです。我々の年代はエレキギターという文明の利器にしびれて、エレキバンド=不良と言われた時代です。珍しいものや経験した事の無いものに出会うと、不良や悪いものししてしまう、島国根性の悪い所が、文明開化いらい続いていた時代です。この曲はいい唄ですが、GSと言うだけで大人には不良に見えたのです。彼がソロになったら、結構いい奴じゃないかと勝手な事を言っていますが、それが大人なんだと最近わかりました。わたしも大人になったのでと思います。

2011年7月4日月曜日

九月の雨 (太田裕美)

六月は梅雨、九月は秋雨の季節ですが私の生まれ月が九月なので、なぜかこの曲に惹かれるのです。若い頃、同棲していた彼女も九月生まれで二日違いでした。正式に彼女と付き合う前は、あの手この手のプレゼント作戦で、苦労しましたが、今はいい思い出になりました。恋愛は付き合うまでがワクワクして、結ばれるとお互いの欠点が目立って来て、またそれを許せない若さという愚かな感情が、今度は破壊に加勢する。今の寛容さがあれば彼女を掴んで居られたのに、彼女もあんなに剥きになることも無かっただろうに、若さのいたりですね。

2011年7月1日金曜日

六月の雨 (小椋 佳)

このところ暑い日がつずいているのに梅雨が明けない、そんな”六月の雨”は今日でおしまいなのでこの曲の思い出を。印象深い曲ではありませんが、この曲は親友の結婚式で2回唄いました。それも、無伴奏のソロでした、けっこう緊張しましたが出た処勝負で唄ったのです。こういう曲は聞き込まれるので唄うまでは酒を飲みませんでした。一生に一度の事ですから、親友として贈りたかったのです。♪幾つ春を数えても、幾つ秋を数えても、二人で居たい♪ここのフレーズが結婚にぴったりだと思います。”君といつまでも”ではありきたりですからね。

2011年6月30日木曜日

雨の慕情 (八代亜紀)

前にも書いたが、私が台湾の旅行で印象の深いこの曲。繰返すようですが、あれは会社の業績を評価され、社長が行くはずだった台湾旅行に代行する事になったのだ。数社の会社のオーナーが招待されたパナソニックの謝恩招待旅行だった。他の人は社長で、わたしの会社だけ平社員です。お金がいくらあっても足りません。夜の台北に繰り出しても、支払いは割り勘ですから、用意していたお金が全て消えました。チャイニーズドレスが腰まで割れたホステス相手に、高級クラブのステージでは、八代亜紀さんの名曲”雨の慕情”が流れています。あの時の私には♪金かねクレクレもっとクレ♪、と聞こえてしまいました。

2011年6月29日水曜日

雨の物語 ( イルカ)

もちろん”なごり雪”の第二段のこの曲は、二番煎じのジンクスを破り中ヒットしました。”なごり雪”よりも、むしろ伊勢正三の”22才の別れ”の次回作のように思います。丁度この頃に私も別れを経験したので、この曲を聞くと切なくなるのです。♪化粧する君のその背中がとても小さく見えて仕方ないから♪、この部分ですごく未練を感じます。これは同じような経験をした人間ならわかるものです。夜中に、ふと寝返りを打つと、いつもと違い障害物が無い。あの空虚さは、とてもさみしいものです。慣れるのに時間が掛かるのです。

2011年6月28日火曜日

雨 (ジリオラ、チンクエッティ)

雨の季節の真っ只中に、この曲は雨を楽しさに変えてくれます。それはなぜかと言うと、わたしはこの曲を聴くとメリーゴーランドを思い浮かべるのです。それも勿論雨の日の遊園地なんです。空想の世界なんですが、青年の頃からそうなんです。雨の日でもあの乗り物は屋根があり、ぐるぐると回りながら上下する木で出来た木馬に乗り、楽しい気持ちになってゆく、その時になぜかこの曲が流れるのです。回転木馬にぴったりの曲だと思い込み、この曲を聴くとメリーゴーランドが頭の中を回ります。変な条件反射です、もしかしたら前世の記憶なんでしょうか、前世はイタリヤ人だったりして。

2011年6月27日月曜日

雨音はショパンの調べ (小林麻美)

わたしの記憶では、この人はモデルだったような気がします。テレビの露出度が高かった時期に、突然この曲を出して思わぬヒットを手にしたように憶えています。ショパンの雨垂れをモチーフに作られたこの曲は、初めに聞いたとき驚いた。崇高なショパンの曲の溜息のような台詞が使われているのです。流行歌とはこういう手法が使えるのかと言う驚きです。もっとも、ベートーベンの曲もかなり色んな曲に変化した事実があるので、まあ良しとしましょう。しかし、一発屋の彼女は今どうしているのでしょう。その当時はけっこうファンでした。

2011年6月24日金曜日

雨に濡れても(訳詞付)

雨に濡れても、という曲ですが若い人には馴染みが無いかもしれませんが、たしか映画の挿入曲でした。JBトーマスが唄うこの曲は、始めは西部劇の挿入歌でしたが、後に別の映画に使われ際ヒットしたものです。この曲を聞いて雨が暗い天候なわけがない、むしろこの天然現象を体いっぱいに楽しんでいる状態です。嫌だと思えば何でも嫌になるし、それを楽しんでしまえば、こんなにいい気分に成れるということを教えてくれた曲です。いま梅雨の真っ最中ですが、すぐに暑い夏がやってきます。その時このうっとおしい季節が思い出されるのでしょう。

2011年6月23日木曜日

アメフリ(雨降り)

いまではすっかり”雨の慕情”にお株を取られてしまいましたが、♪雨雨降れ降れ♪の元祖なんです。この曲のように、母さんが蛇の目でお迎え、はありませんでした。何しろ学校の門から走れば2分もあれば家に着く距離ですから。だけど忘れられないのは、♪ぴちぴちちゃっぷちゃっぷランランラン♪でしょうか。長靴の中に水をいれ、足を突っ込んだ時の快感は今でも思い出します。そのうちに、グッチョグッチョになつて、しばらくすると、何ともといえない臭い臭いがしてたまりませんでした。子供のすることなので母は怒りませんでしたが、その臭い長靴の中を私の鼻に押し付けるので参りました。

2011年6月22日水曜日

雨 (北原白秋 童謡)

同じ雨でも子供の頃の雨はこんな雨でした。雨という暗さは無く、雨という天気を客観的にみて、淡々と詩につずった白秋は何故こんなに雨がわかるのか?。彼の育った九州の柳川に行くと理解出来るような気がする。柳川という場所がじつに雨にぴったりの町だからです。それは川沿いに植えられた柳と、静かで鏡のような川面に雨の波紋が絵になるのです。柳は花札でも雨を表しているし、英語でもレイニィウッドといい、雨の木なのです。その情緒ある街の雨の景色を、白秋が見事に表現したこの曲は、今聞いてもしっとり心が濡れます。

2011年6月21日火曜日

雨 (三善英史)

この曲は”なかにし礼”先生の一番弟子の”千家一也”さんの作品で、その内容は昭和そのものでした、♪土曜の昼下がり”には平成では無いある事情がありました。それは半ドンです、知っていますか半ドン。学校も仕事場も午前中に仕事をして、お昼から自由時間だったのです。平成になって、週5日制が定着して、花の金曜日なんて言って土曜は休日が当たり前になりました。その半ドンのドンですが、戦後の時報としてお昼に皇居のほうで、正午に大砲の空砲を撃って時刻を知らせたので、半日のドンで半ドンなのです。恋人が待ち合わせをして、雨が降り、時間だけが体をすり抜ける、千家一也さん独特の理屈っぽい曲です。

2011年6月20日月曜日

雨をみたかい(訳詞付) / CCR

北海道から帰ったら東京は梅雨の真っ只中でした。毎日じめじめとして雨がふりつずく。半月の旅をおえて、このブログも新しく仕切りなおしと行きましょう。雨を見たかい、ときかれても、普通は雨に遭わなかったかい、が日本語だろうと思う。この曲をはじめて聴いたとき疑問をもった。そして、グループ名がクリーデンス、クリアー、ウオーターと訳のわからぬバンドだ。それなのに、雨が降ると思い出すこの曲は何なんだろう。ここに訳詞の作品があったので選んでみた。なるほど今頃理解してきた。

2011年6月16日木曜日

休日宣言

半月の長旅から帰ったばかりなので気が抜けています、今週はお休みします。

2011年6月15日水曜日

新世界,№2 家路 (ドボルザーク)

新世界という交響曲の由来とは、作者のドボルザークがアメリカに行き、今までとは違った旋律を持ち込んだ第一楽章が印象的だ。ネイティブアメリカンのようなメロディを使い、勇ましいイメージに仕上がって完成度を高めています。それに引き換え、グッと控えめなのが第二楽章で、夕暮れを連想させるので、”遠き山に日は落ちて”と和文を当てたり、音楽には”家路”と言う副題を付けるなどの単品で愛されている。夕方に防災無線で流されている地方もあるようです。今回、5度目の北海道を旅して、初めて家で待つ人がいない旅をしました。いつも待っていてくれた母は去年亡くなり、そのありがたさを改めて知る今年の旅です。

2011年6月14日火曜日

北帰行 (小林旭)

高音の旭節が心地よい歌ですが、唱歌としての”北帰行”とは違って、彼、独特の唄になっています。大人の魅力で、背中に影を背負った男が、すべてを捨てて故郷に帰ろうとしている情景が浮んできます。コーラスのダークやボニーが歌うのとは別物に聞こえます。”ギターを抱いた渡り鳥”という彼の映画がありますが、その延長線にあるような曲ですね。ちなみに、私も旅に出る時に、小型のギターを持っていきます。ある時は、夜の摩周湖駐車場で”霧の摩周湖”を酒を飲みながら唄った事があります。その時、周りに車は一台も居ませんでしたし、ちょうど霧が立ち込めていました。

2011年6月13日月曜日

北空港 (浜圭介、夫妻)

私は彼女のファンでした、と言うか歌のファンでした。”北国の青い空”を聞いて、何時かその歌詞のような場所に行ってみたいと思うようになりました。そして、我が恩師の”なかにし礼”先生の内弟子である千家和也さんとコンビを組んだ浜圭介先生との結婚を知り、心から祝福したのを思い出します。私は作詞の勉強したのは作詞講座で、千家さんは直接押しかけて、内弟子になったのです。作詞家に憧れて夜遅くまで歌詞を製作していた頃を懐かしく思い返します。このお二人を見ると、何故かあの頃が蘇えります。

2011年6月10日金曜日

北の漁場 (北島三郎)

この曲は北島三郎さんの原点でしょう。彼のデビユー曲のなかに♪ゴムのカッパに染み透る♪と言う漁師が主人公の歌が有名なので、漁師の経験が有るのかと思ったくらいです。北島さんは函館の近くの知内という場所の出進で、函館には記念館もあります。いろいろ苦労をなされてビックになった今、メジャーではなかった村を全国に知らしめた功績もあります。そう言えば、羊蹄山の麓の真狩村を有名にした細川たかしさんも同じようです。有名人になると決まって、饅頭や煎餅に名前がついて売られている。二人ともお土産で買った事があります。

2011年6月9日木曜日

北の螢 (森進一)

むかしは北海道を蝦夷と言っていた頃、開拓民の苦労のほかに、強制労働の囚人達がいた事を、北海道へ行った時に初めて知った。網走の付近の道路脇に、こんもりとした塚が幾つもあった。バスガイドの説明でそれが囚人の墓だと知った。そんな事を聞いてからこの映画を観たときの、なんとも言えない不条理さが、今でもその辺りへ行くと思い出す。そして、阿久悠さんの搾り出した名曲を思い出すのです。網走刑務所は今では軽い刑の人が、農業をしたりする刑に服しているらしいのです。昔はひどかったという悲しい物語です。

2011年6月8日水曜日

北の旅人 (石原裕次郎)

ミスター昭和の裕次郎さんは平成を知らずして亡くなりました。でも、彼の唄を聴くたびに昭和の光景や出来事を思い出します。小樽にある裕次郎記念館に行った事がありますが、入口を入ると黒部の太陽のセットがあったり、彼の愛車が展示してあったりで、死んでも虎は皮残す、ではないですが偉大なひとでした。都知事のお兄さんもそうですが、小樽で生まれて、商船会社の父親の都合で葉山に越してきたとの事。余談ですが、私の作詞の師である、なかにし礼さんも小樽出身で、裕次郎さんとの同郷で偶然の出会いが人生の岐路だったと聞いています。ですから、私は小樽の街が好きです、もう何度もいきました。

2011年6月7日火曜日

北酒場 [NORTHERN BAR] (細川たかし)

ただ北だけなら相当数の歌謡曲があるとおもいます。北区と言う住所は東京、大阪、諸々、日本で一番多いのではないかと感じます。北のイメージがピンときやすいのではないでしょうか。日本列島は西日本と東日本に分かれています。本州も関西と関東に分けられるのに、区になると北が多いのは何故だろう。何て、どうでも良い事を書いて一人で悩んでいる。なぜ北酒場なのかが問題なんだある。西酒場だと西洋の感じがする、東酒場は日の出の印象がある、南酒場もいいのだが、解りますよね。北の閉鎖的な雪に埋もれて行動範囲が小さいところに物語が生まれてくるのです。何が言いたいのか分りますか、私も見失った。

2011年6月6日月曜日

北国の町 (鶴岡雅義と東京ロマンチカ )

前に投稿した”北国の街”がありましたが、今度は”北国の町”です。街と町の違いは、ただ大きい街とか小さい町とかの違いでしょうか。歌を作るときはそこまで掘り下げてこだわるものなのです。郵便を出すのに、何とか町と言いますが、何番街という場所もありますね。どうも新旧で使い分ける事もあるようです。と言う事は、札幌、小樽、函館あたりは街で、富良野、増毛、佐呂間クラスの処が町なのでしょうか。それに時間的考察をすると、札幌が街で、函館は町になる。たかが短い歌の世界ですが、作るもののこだわりはそこまで深いのです。

2011年6月3日金曜日

逢いたくて北国へ (小柳ルミ子)

お嬢様歌手でデビューした彼女も、最近はご発展で、人は変るものの典型みたいですが、この国を出した頃はお嬢様でしたよ。こういう曲の特徴は出会いの話は無く、突然別れのシーンから始まるので驚く。唄は3分間のドラマと言うので、初めから説明する余裕はないのかも。しかし、サウンドのほうは大体汽車の走る速度を意識して作られるようです。16ビートの倍テン(8の倍のテンポ)で列車の響きを意識しているようです。作詞で行きとか夜行列車と書いても、曲を作る人がゆっくりしたビギンなどで進行したら、歌謡詩としては成立しても、音楽としては破綻してしまいます。作詞、作曲家の息が合うとはそういう事なんです。

2011年6月2日木曜日

北国の街 (舟木一夫)

むかし、昭和の中頃のこと、歌謡界に新御三家なる人達がいました。その中のひとりに舟木一夫さんがいました。わたしは御三家では西郷輝彦派でありましたが、他の、橋、舟木さんの曲も気に入ったら聴きました。この曲の前奏で聞こえるクラリネットの響きが、北国の哀愁を漂わせています。私が子供の頃は、クラリネットといえばチンドン屋と言う広告楽団でした。あの荒っぽい吹きかたで、耳障りな音色が人の気を引くのにワザとしていたのかもしれません。あの看板を下げて吹いていたクラリネットの音色も、この歳で久しぶりに聴くと、何と哀愁のある音色ではありませんか、ノシタルジーなんでしょうかね。

2011年6月1日水曜日

だからわたしは北国へ (チェリッシュ )

”だからわたしは北国へ”と言って、突然だからと来る歌の手法は、”そして神戸”などにも見られる技で、珍しくないのだが、驚いたのは中にある♪恋の戦争にやぶれた”と、恋が戦争なんだという理論でした。いままで恋が辛いとかはよく表現されていましたが、戦争とは考えた事もありませんでした。戦争とは、争って相手のものを手に入れる、相手の人権までも支配する。そう言った意味では共通するのかも知れない。作詞の勉強の中で、恋と愛は似ても別物と教わったが、これを愛の戦争とは表現できない。それは愛は奪うものでも支配するものではなく、すべて与えるものだからです、なんちゃって。

2011年5月31日火曜日

北国の春 (チベット語)

30代の頃にアジアンPABたら言う飲み屋に通ったものでした。アジアの女性が、結構不正就労している店で、そんな店の女性たちが好んだ曲がこれだった。台湾、フィリピン、タイなどのアジアンたちは、お金を稼ぐのに日本に来たものの、体を売るほどではないが、貧しい国の家族に仕送りするために飲み屋でホステスをする。そんな彼女達の心を癒したのがこの曲で、国を超えて愛されたのだ。台湾旅行をした時に世話になったり、結婚式にフィリピンに招待されたり、けっこう良い関係を築いていた友人のような関係でした。いまこの曲を聴くと、私的には千昌夫ではなく、彼女達の歌声が思い出される。

2011年5月30日月曜日

北国行きで (朱里エイコ)

♪次の北国行きが来たら乗るの♪今でも出てくるこのフレーズは、もう何年前の曲になるのでしょう。当時は美脚№1の彼女はスタイルの良さと、R&Bのプリンセスとして注目を浴びていましたが、何年か前に天国へ旅立ってしまいました。日本の歌謡曲の基本である失恋は、ほとんど北国の人が主人公のようです。例えば、北国へ来た女性が失恋をして、沖縄に帰ってハイビスカスの花の下で男を恨んで涙を流す。こんなシーンは悲しく見えますか?、見えませんよね。気候の良さや明るい光線が曲の悲しみを半減してしまうのです。やはり、涙も凍るほどの寒さがないと、悲しみは倍増しないのですね。

2011年5月27日金曜日

さいはての湖 (日野てる子)

この人も昭和の頃、人気があったのですが、平成になって全く見なくなりました。ハワイアンソング出身の、その魅力的な裏声はハートにグッときました。この当時に”さいはて”ブームがありまして、何でも最果てを付けるとヒットした事があったのです。それも、北の最果てのイメージが日本人の心に悲しい雰囲気を与えるようなんです。南半球に行けば、雪が降るのは南で、南国は冷たく北国は暖かい。ニュージーランドの人には日本の心は通じないでしょうね。すこし外れましたが、来週から北海道旅行をするので、北の歌集をやろうと思います。

2011年5月26日木曜日

ケンメリ 「愛のスカイライン」 (BUZZ)

北国、北海道と言えば車好きのわたしは、このCMが忘れられません。まさか、この木の下に来るとは、それも何度も、この地を踏みしめるとは思いませんでした。CMを見た頃は、綺麗な場所だな、とか広々しているとかの印象で、そこが何処なのか行ってみたいなどの思いはありませんでした。この歌はCM版で♪愛のスカイライン♪、のところが原曲では♪愛と風のように♪となっていますが、私の頭の中ではスカイラインと響きます。五十代の頃、会社が倒産したので人生の大型連休と思い、北海道一人旅を決行、美瑛の街に来てあのCMのケンとメリーの木がここだったのを知りました。それからもう、幾度かここを訪れています。

2011年5月25日水曜日

函館山から (美空ひばり)

この曲は私の青春時代に大きな影響を与えた、あの小椋佳さんの作品です。それをミス昭和の美空さんが唄い、あの函館を舞台に中高年の哀愁を唄っている、私の心境にぴっったりの作品です。しかし、私は昭和に函館山を訪れたことはありません、つい4,5年前の平成になってからです。それなのに何故か懐かしい思いがするのは、路面電車やレンガ造りの倉庫などの風景が、子供の頃に見た風景と合致するからです。懐かしい昭和や大正明治の町並みがそのまま存在しているからです。私は昭和生まれなので、それ以前は知りませんので全てが昭和にかんじます。函館は私の昭和風景なのです。

2011年5月24日火曜日

みちのく一人旅 (ディ-プパ-プル風)

ことしの東北の震災でフェリーでの北海道入りが、太平洋側が無理なので、思い切って日本海側から行くことにしました。新日本海フェリーの敦賀発、新潟、秋田経由の津軽海峡を抜けて苫小牧東行き、と言う鈍行みたいなのがあったので、新潟から乗船する事にしました。思えば、東北の旅もしましたし、その場所を海から見られるのも一興かと思います。そこで、この曲を選びました、それもヘビーメタル風な激しいやつで、オリジナルではありません。北国行きの雰囲気は、落ち込み気味になるので、景気付けに盛り上げましょう。

2011年5月23日月曜日

恋の町札幌 (石原裕次郎)

連想更新も一区切りついたところで、今年の私の旅は北海道に決まりました、決まりました、では無く決めましたですか。6月1日より半月くらい、道内を彷徨ってきます。そこで、これから少しのあいだ北国にちなんだ曲を更新して行きたいと思います。昭和の好きだった私は、ミスター昭和の石原裕次郎さんやミス昭和の美空ひばりさんが活躍した時代に青春時代を過ごし、お二人とも平成まで生きていてくれませんでした。しかし、歌は残っています、たとへ平成が終ろうとも、いつの時代にも昭和を唄ってくれます。北国の都、札幌の唄でピンと閃くのはこの曲でした。彼の記念館は隣の小樽にありますね。

2011年5月20日金曜日

空港 情人的關懷  (鄧麗君.テレサ・テン)

北京語で日本のヒットを歌っている外人女性アーティスト、で分類しているとこの人にあたります。若くして亡くなった彼女の死因はさまざまな憶測があるが、このブログの範疇ではない。30代の頃に会社の業務成績が良いと台湾旅行を進呈された。取引会社の社長連中に混じって、5人ほどのツアーが組まれ、下請け会社の社長と意気投合、南京北路などのクラブへいきました。当時は八代亜紀さんの雨の慕情などが北京語で唄われていました。チャイナドレスの美女達に囲まれ、北京語の歌謡曲を聴く。贅沢な話です。しかし、私以外はみんな社長、私はぺーぺー、圧倒的に財力が違います。帰る頃にはスッカラカンで、お土産も買えませんでした、だけど、素敵な思い出と言うお土産を、今でもいっぱい持っています。

2011年5月19日木曜日

雨中旅程 《雨のエアポート》  (欧陽菲菲)

そして沖縄のはずれ与那国島のむこうには台湾があります。そこから来た人で、のちに式場財閥の御曹司と結婚して逆玉に乗ったのがこの人である。デビュー曲は以前にベンチャーズの時紹介しているので、第二デビユーのこの曲を選びました。そして、北京語のアチャラ版が有りましたので聞いてみましょう。昔のはなしですが、まだ中国の読み方が分らないので、面白半分でオーヨーニラニラなんて失礼な読み方をしたものです。彼女はデビュー当時からオバサンぽいキャラで、幾つ位なのか不明でしたが、時代が移ると変らぬ美貌で、時代の変遷を感じさせません。式場婦人よいつまでも若くあれ。

2011年5月18日水曜日

17才 (南沙織)

ミーナから南えと半ば強引に繫げてしまいました。この人は日本人でしょうが、という人もあるでしょう。でも、彼女がデビユーした時代には、沖縄に行くのにパスポートが必要だった時代なんです。車も左側通行だったし、米ドルが使われていたのですよ。それをもって日本人と言い切れるでしょうか。その当時の沖縄の住民はアメリカの一部だったのです。そしてアグネス.ラムのように小麦色した女の子でした。今でも沖縄の人は本州の人と沖縄の人を、違う呼び方をして分けています。ですから、彼女イコール日本人という計算にはならないと思います。

2011年5月17日火曜日

別離 (ミーナ)

このうたは越路吹雪さんなども出していましたが、何といっても当時はミーナでした。と言うのも、少しずつ外人になれて来た日本人が、あの拙い外人訛りの日本語が、以外と心地よい事に気が付いてきた頃なのです。今では日本語ペラペラな外人タレントまで、わざと外人訛りの喋り方をして受けを狙っています。ミーナのデビユーしたころは、狙わなくても受けていました。何かまったりとした曲で、だらだらした運びのこの曲は、悪口ではないのですが、中途半端な感動で破綻しています。当時の女性はそれなりに共感したのでしょうが、今日日の女性はもっとあっけらかんとしています。

2011年5月16日月曜日

ひなげしの花 (アグネス.チャン)

東洋でもアグネスはいました。アグネス.ラムが定着した頃、まるで正反対の少女がデビューしたのです。その頃わたしは青年でしたから、ラムのほうには興味はありましたが、今の秋葉時代と違って、まるで中学生みたいなチャンのほうには興味はありませんでした。それに、唄のメロディーが、♪おっかのうえ、ひーなげしーのはなが♪どう観ても変な日本語でしょう。それに、ひなげしとはポピーの事でしょ、見るからに花弁が大きくて、花弁で占うほどありません。ひと目で来る来ないなんて分りますよね。作詞家修行をしていた私から見ると、本当に奇妙な作品でした。

2011年5月13日金曜日

Im Agnes (アグネス.ラム)

この人を外人女性アーティストに分類していいのか悩みますが、一応レコードを発売しているで良しとしましょうか。彼女の印象は、日焼けした肌によく似合う、マスタードカラーのワーゲンの種類でカルマンギアという愛車から颯爽と降りてきて、片手を口に添えて”ホ~ッ”と声をかけると、男性陣が総崩れするコマーシャルです。あの童顔でくびれたボディのアンバランスさが魅力的で、当時トップグラビアアイドルを産出していたクラリオンガールとしても話題になりました。とにかく昭和の妖精は小麦色が多かったようです。今みたいに日焼けは皮膚癌のもと、なんて知らなかった時代でしたから。

2011年5月12日木曜日

アドロ (グラシエラ.スサーナ)

外人女性アーティストもいろいろ居ましたが、その中でも、この人ほど抜群に暗い存在は居なかったでしょう。とにかくヒットする曲がどれも暗い、絶望の淵での愛の歌なのです。感情移入がものすごく、聞くものみんな感激より先に暗くなってしまう。他のヒット曲の”サバの女王”とかでも、聴いてるひとが死にたくなるほどオモッ苦しいのです。唄は上手なのですが、多感な青春時代にこういう曲を聴いていると、心のそこからブルーになります。わたしの青春時代に、この唄の影響もあって、♪わたしの人生暗かった♪のですよ。

2011年5月11日水曜日

やさしく奪って (シェリー)

キャンディーズやピンクレディーが全盛期の頃、お茶の間外人アイドルとして、バラエティーやお笑い番組などでブレークしたシェリー、格好わたしはファンでした。実は彼女は歌手だったのですね、そういえばヒットスタジオなんかにも出ていました。でも、ヒットに恵まれず、お約束の、おもろい外人になってしまったのです。彼女はどこか日本人的でもあるので、もしかしたらハーフかもしれないと、当時から思っていました。それはともかく、とうじの外人ハーフの女性の綺麗だったのには驚きました。その当時からの趣味を引きずって、いまでも、道端アンジェリカなんか、とても可愛いと思います。

2011年5月10日火曜日

恋はみずいろ (ヴィッキー)

この人もむかし日本で話題になったひとで、いわゆる膨れっ面で思い出すのである。膨れ、というのはマッカートニーやスタローンに代表される顔立ちである。子供の頃にこの人を観て、なんて不満顔なんだろうと思っていたが、今思い返すとこんな顔は、白人にはよくある顔だと言う事がわかった。まあ顔はどうでも良いのですが、この曲はそこそこヒットして水色という色をメジャーにした曲でもあります。現代でも、水色と言えばほとんどの人がこの曲を思い出すでしょう。その後、ポールモーリアが演奏でリバイバルして、再びヒットした事もおもいだします。そして、あの膨れっ面の彼女も。

2011年5月9日月曜日

情熱の花 (カテリーナ,バレンテ)


忘れていた外人の女性歌手で、こんな人がいました。今でもたまに聴く事がある”恋のバカンス”を歌ってヒットして、それをザ.ピーナッツがカバーして、いつの間にか彼女達のレパートリーになってしまったという、そんな存在の人です。この曲もやはりピーナッツのヒット曲になりましたが、いわば、本家、とか元祖なんですよね。この当時、洋楽を日本人用に訳詩をして、日本の新人歌手に自分の曲のように発売した時代があって、現代のようにカバーという観念がなかったので、本家も悔しい思いをしたのでしょう。でも、この曲はベートーベンの曲をアレンジしたらしく、パクリが多い音楽業界のようですね。

2011年5月6日金曜日

忘れないわ (ペギーマーチ)


忘れ、忘れ、で”忘れないわ”と来てしまった。この曲を思い出したとき、かならず思い出すのは修善寺だ。むかし、ある会社の社員旅行で伊豆に行き、野田屋というホテルに宿泊した。食事も終わり、暇だったのでホテルのバーにお邪魔してカラオケなどを歌っていた。そこえ宿の女将が現れて、わたしにこの曲を歌ってくれないかと言って来た。女将の思い出の曲らしい。おかげで私の思い出にもなってしまった。この曲は外人が唄っているが、れっきとした国産である。このペギーマーチは小さい頃から日本に来ていて、確か小さな頃はリトルペギーマーチだったような記憶がある。しかし、いまでもいい曲だと思っています。