2011年6月30日木曜日

雨の慕情 (八代亜紀)

前にも書いたが、私が台湾の旅行で印象の深いこの曲。繰返すようですが、あれは会社の業績を評価され、社長が行くはずだった台湾旅行に代行する事になったのだ。数社の会社のオーナーが招待されたパナソニックの謝恩招待旅行だった。他の人は社長で、わたしの会社だけ平社員です。お金がいくらあっても足りません。夜の台北に繰り出しても、支払いは割り勘ですから、用意していたお金が全て消えました。チャイニーズドレスが腰まで割れたホステス相手に、高級クラブのステージでは、八代亜紀さんの名曲”雨の慕情”が流れています。あの時の私には♪金かねクレクレもっとクレ♪、と聞こえてしまいました。

2011年6月29日水曜日

雨の物語 ( イルカ)

もちろん”なごり雪”の第二段のこの曲は、二番煎じのジンクスを破り中ヒットしました。”なごり雪”よりも、むしろ伊勢正三の”22才の別れ”の次回作のように思います。丁度この頃に私も別れを経験したので、この曲を聞くと切なくなるのです。♪化粧する君のその背中がとても小さく見えて仕方ないから♪、この部分ですごく未練を感じます。これは同じような経験をした人間ならわかるものです。夜中に、ふと寝返りを打つと、いつもと違い障害物が無い。あの空虚さは、とてもさみしいものです。慣れるのに時間が掛かるのです。

2011年6月28日火曜日

雨 (ジリオラ、チンクエッティ)

雨の季節の真っ只中に、この曲は雨を楽しさに変えてくれます。それはなぜかと言うと、わたしはこの曲を聴くとメリーゴーランドを思い浮かべるのです。それも勿論雨の日の遊園地なんです。空想の世界なんですが、青年の頃からそうなんです。雨の日でもあの乗り物は屋根があり、ぐるぐると回りながら上下する木で出来た木馬に乗り、楽しい気持ちになってゆく、その時になぜかこの曲が流れるのです。回転木馬にぴったりの曲だと思い込み、この曲を聴くとメリーゴーランドが頭の中を回ります。変な条件反射です、もしかしたら前世の記憶なんでしょうか、前世はイタリヤ人だったりして。

2011年6月27日月曜日

雨音はショパンの調べ (小林麻美)

わたしの記憶では、この人はモデルだったような気がします。テレビの露出度が高かった時期に、突然この曲を出して思わぬヒットを手にしたように憶えています。ショパンの雨垂れをモチーフに作られたこの曲は、初めに聞いたとき驚いた。崇高なショパンの曲の溜息のような台詞が使われているのです。流行歌とはこういう手法が使えるのかと言う驚きです。もっとも、ベートーベンの曲もかなり色んな曲に変化した事実があるので、まあ良しとしましょう。しかし、一発屋の彼女は今どうしているのでしょう。その当時はけっこうファンでした。

2011年6月24日金曜日

雨に濡れても(訳詞付)

雨に濡れても、という曲ですが若い人には馴染みが無いかもしれませんが、たしか映画の挿入曲でした。JBトーマスが唄うこの曲は、始めは西部劇の挿入歌でしたが、後に別の映画に使われ際ヒットしたものです。この曲を聞いて雨が暗い天候なわけがない、むしろこの天然現象を体いっぱいに楽しんでいる状態です。嫌だと思えば何でも嫌になるし、それを楽しんでしまえば、こんなにいい気分に成れるということを教えてくれた曲です。いま梅雨の真っ最中ですが、すぐに暑い夏がやってきます。その時このうっとおしい季節が思い出されるのでしょう。

2011年6月23日木曜日

アメフリ(雨降り)

いまではすっかり”雨の慕情”にお株を取られてしまいましたが、♪雨雨降れ降れ♪の元祖なんです。この曲のように、母さんが蛇の目でお迎え、はありませんでした。何しろ学校の門から走れば2分もあれば家に着く距離ですから。だけど忘れられないのは、♪ぴちぴちちゃっぷちゃっぷランランラン♪でしょうか。長靴の中に水をいれ、足を突っ込んだ時の快感は今でも思い出します。そのうちに、グッチョグッチョになつて、しばらくすると、何ともといえない臭い臭いがしてたまりませんでした。子供のすることなので母は怒りませんでしたが、その臭い長靴の中を私の鼻に押し付けるので参りました。

2011年6月22日水曜日

雨 (北原白秋 童謡)

同じ雨でも子供の頃の雨はこんな雨でした。雨という暗さは無く、雨という天気を客観的にみて、淡々と詩につずった白秋は何故こんなに雨がわかるのか?。彼の育った九州の柳川に行くと理解出来るような気がする。柳川という場所がじつに雨にぴったりの町だからです。それは川沿いに植えられた柳と、静かで鏡のような川面に雨の波紋が絵になるのです。柳は花札でも雨を表しているし、英語でもレイニィウッドといい、雨の木なのです。その情緒ある街の雨の景色を、白秋が見事に表現したこの曲は、今聞いてもしっとり心が濡れます。

2011年6月21日火曜日

雨 (三善英史)

この曲は”なかにし礼”先生の一番弟子の”千家一也”さんの作品で、その内容は昭和そのものでした、♪土曜の昼下がり”には平成では無いある事情がありました。それは半ドンです、知っていますか半ドン。学校も仕事場も午前中に仕事をして、お昼から自由時間だったのです。平成になって、週5日制が定着して、花の金曜日なんて言って土曜は休日が当たり前になりました。その半ドンのドンですが、戦後の時報としてお昼に皇居のほうで、正午に大砲の空砲を撃って時刻を知らせたので、半日のドンで半ドンなのです。恋人が待ち合わせをして、雨が降り、時間だけが体をすり抜ける、千家一也さん独特の理屈っぽい曲です。

2011年6月20日月曜日

雨をみたかい(訳詞付) / CCR

北海道から帰ったら東京は梅雨の真っ只中でした。毎日じめじめとして雨がふりつずく。半月の旅をおえて、このブログも新しく仕切りなおしと行きましょう。雨を見たかい、ときかれても、普通は雨に遭わなかったかい、が日本語だろうと思う。この曲をはじめて聴いたとき疑問をもった。そして、グループ名がクリーデンス、クリアー、ウオーターと訳のわからぬバンドだ。それなのに、雨が降ると思い出すこの曲は何なんだろう。ここに訳詞の作品があったので選んでみた。なるほど今頃理解してきた。

2011年6月16日木曜日

休日宣言

半月の長旅から帰ったばかりなので気が抜けています、今週はお休みします。

2011年6月15日水曜日

新世界,№2 家路 (ドボルザーク)

新世界という交響曲の由来とは、作者のドボルザークがアメリカに行き、今までとは違った旋律を持ち込んだ第一楽章が印象的だ。ネイティブアメリカンのようなメロディを使い、勇ましいイメージに仕上がって完成度を高めています。それに引き換え、グッと控えめなのが第二楽章で、夕暮れを連想させるので、”遠き山に日は落ちて”と和文を当てたり、音楽には”家路”と言う副題を付けるなどの単品で愛されている。夕方に防災無線で流されている地方もあるようです。今回、5度目の北海道を旅して、初めて家で待つ人がいない旅をしました。いつも待っていてくれた母は去年亡くなり、そのありがたさを改めて知る今年の旅です。

2011年6月14日火曜日

北帰行 (小林旭)

高音の旭節が心地よい歌ですが、唱歌としての”北帰行”とは違って、彼、独特の唄になっています。大人の魅力で、背中に影を背負った男が、すべてを捨てて故郷に帰ろうとしている情景が浮んできます。コーラスのダークやボニーが歌うのとは別物に聞こえます。”ギターを抱いた渡り鳥”という彼の映画がありますが、その延長線にあるような曲ですね。ちなみに、私も旅に出る時に、小型のギターを持っていきます。ある時は、夜の摩周湖駐車場で”霧の摩周湖”を酒を飲みながら唄った事があります。その時、周りに車は一台も居ませんでしたし、ちょうど霧が立ち込めていました。

2011年6月13日月曜日

北空港 (浜圭介、夫妻)

私は彼女のファンでした、と言うか歌のファンでした。”北国の青い空”を聞いて、何時かその歌詞のような場所に行ってみたいと思うようになりました。そして、我が恩師の”なかにし礼”先生の内弟子である千家和也さんとコンビを組んだ浜圭介先生との結婚を知り、心から祝福したのを思い出します。私は作詞の勉強したのは作詞講座で、千家さんは直接押しかけて、内弟子になったのです。作詞家に憧れて夜遅くまで歌詞を製作していた頃を懐かしく思い返します。このお二人を見ると、何故かあの頃が蘇えります。

2011年6月10日金曜日

北の漁場 (北島三郎)

この曲は北島三郎さんの原点でしょう。彼のデビユー曲のなかに♪ゴムのカッパに染み透る♪と言う漁師が主人公の歌が有名なので、漁師の経験が有るのかと思ったくらいです。北島さんは函館の近くの知内という場所の出進で、函館には記念館もあります。いろいろ苦労をなされてビックになった今、メジャーではなかった村を全国に知らしめた功績もあります。そう言えば、羊蹄山の麓の真狩村を有名にした細川たかしさんも同じようです。有名人になると決まって、饅頭や煎餅に名前がついて売られている。二人ともお土産で買った事があります。

2011年6月9日木曜日

北の螢 (森進一)

むかしは北海道を蝦夷と言っていた頃、開拓民の苦労のほかに、強制労働の囚人達がいた事を、北海道へ行った時に初めて知った。網走の付近の道路脇に、こんもりとした塚が幾つもあった。バスガイドの説明でそれが囚人の墓だと知った。そんな事を聞いてからこの映画を観たときの、なんとも言えない不条理さが、今でもその辺りへ行くと思い出す。そして、阿久悠さんの搾り出した名曲を思い出すのです。網走刑務所は今では軽い刑の人が、農業をしたりする刑に服しているらしいのです。昔はひどかったという悲しい物語です。

2011年6月8日水曜日

北の旅人 (石原裕次郎)

ミスター昭和の裕次郎さんは平成を知らずして亡くなりました。でも、彼の唄を聴くたびに昭和の光景や出来事を思い出します。小樽にある裕次郎記念館に行った事がありますが、入口を入ると黒部の太陽のセットがあったり、彼の愛車が展示してあったりで、死んでも虎は皮残す、ではないですが偉大なひとでした。都知事のお兄さんもそうですが、小樽で生まれて、商船会社の父親の都合で葉山に越してきたとの事。余談ですが、私の作詞の師である、なかにし礼さんも小樽出身で、裕次郎さんとの同郷で偶然の出会いが人生の岐路だったと聞いています。ですから、私は小樽の街が好きです、もう何度もいきました。

2011年6月7日火曜日

北酒場 [NORTHERN BAR] (細川たかし)

ただ北だけなら相当数の歌謡曲があるとおもいます。北区と言う住所は東京、大阪、諸々、日本で一番多いのではないかと感じます。北のイメージがピンときやすいのではないでしょうか。日本列島は西日本と東日本に分かれています。本州も関西と関東に分けられるのに、区になると北が多いのは何故だろう。何て、どうでも良い事を書いて一人で悩んでいる。なぜ北酒場なのかが問題なんだある。西酒場だと西洋の感じがする、東酒場は日の出の印象がある、南酒場もいいのだが、解りますよね。北の閉鎖的な雪に埋もれて行動範囲が小さいところに物語が生まれてくるのです。何が言いたいのか分りますか、私も見失った。

2011年6月6日月曜日

北国の町 (鶴岡雅義と東京ロマンチカ )

前に投稿した”北国の街”がありましたが、今度は”北国の町”です。街と町の違いは、ただ大きい街とか小さい町とかの違いでしょうか。歌を作るときはそこまで掘り下げてこだわるものなのです。郵便を出すのに、何とか町と言いますが、何番街という場所もありますね。どうも新旧で使い分ける事もあるようです。と言う事は、札幌、小樽、函館あたりは街で、富良野、増毛、佐呂間クラスの処が町なのでしょうか。それに時間的考察をすると、札幌が街で、函館は町になる。たかが短い歌の世界ですが、作るもののこだわりはそこまで深いのです。

2011年6月3日金曜日

逢いたくて北国へ (小柳ルミ子)

お嬢様歌手でデビューした彼女も、最近はご発展で、人は変るものの典型みたいですが、この国を出した頃はお嬢様でしたよ。こういう曲の特徴は出会いの話は無く、突然別れのシーンから始まるので驚く。唄は3分間のドラマと言うので、初めから説明する余裕はないのかも。しかし、サウンドのほうは大体汽車の走る速度を意識して作られるようです。16ビートの倍テン(8の倍のテンポ)で列車の響きを意識しているようです。作詞で行きとか夜行列車と書いても、曲を作る人がゆっくりしたビギンなどで進行したら、歌謡詩としては成立しても、音楽としては破綻してしまいます。作詞、作曲家の息が合うとはそういう事なんです。

2011年6月2日木曜日

北国の街 (舟木一夫)

むかし、昭和の中頃のこと、歌謡界に新御三家なる人達がいました。その中のひとりに舟木一夫さんがいました。わたしは御三家では西郷輝彦派でありましたが、他の、橋、舟木さんの曲も気に入ったら聴きました。この曲の前奏で聞こえるクラリネットの響きが、北国の哀愁を漂わせています。私が子供の頃は、クラリネットといえばチンドン屋と言う広告楽団でした。あの荒っぽい吹きかたで、耳障りな音色が人の気を引くのにワザとしていたのかもしれません。あの看板を下げて吹いていたクラリネットの音色も、この歳で久しぶりに聴くと、何と哀愁のある音色ではありませんか、ノシタルジーなんでしょうかね。

2011年6月1日水曜日

だからわたしは北国へ (チェリッシュ )

”だからわたしは北国へ”と言って、突然だからと来る歌の手法は、”そして神戸”などにも見られる技で、珍しくないのだが、驚いたのは中にある♪恋の戦争にやぶれた”と、恋が戦争なんだという理論でした。いままで恋が辛いとかはよく表現されていましたが、戦争とは考えた事もありませんでした。戦争とは、争って相手のものを手に入れる、相手の人権までも支配する。そう言った意味では共通するのかも知れない。作詞の勉強の中で、恋と愛は似ても別物と教わったが、これを愛の戦争とは表現できない。それは愛は奪うものでも支配するものではなく、すべて与えるものだからです、なんちゃって。