2011年3月31日木曜日

うす紅色の花 (小椋佳)


或る日、彼女の願いでH君を家に招待した。いろいろ楽しく過ごして、彼を駅まで送る時、H君に言われた。もう彼女が来ないようにしっかり捉まえておいてくれ、僕は彼女に興味はないが、私との友情は大事にしたい、と告白され、その日の夜に彼女と話合いをした。そして夜中になったので一人ベットで寝ようとしたが、彼女は私のウイスキーを瓶で飲んでいた。うつらうつらしてきた私に、何かが倒れ込んできた。彼女であったが、腕を握っているので払いのけると真っ赤な血が垂れていた。それで全てを理解した私は救急車を呼び、それが来れば家族にも知れる、しかし彼女の状態のほうが心配だった。

2011年3月30日水曜日

暇つぶし以上に (小椋佳)


H君の部屋に彼女は居なかったが、さっきまで居たそうで入れ違いだそうだ。H君に事情を話すと、彼も困っているようだ。彼女が遊びに来るのは構わないが、来るなら私と二人で来るようにしてくれ、という嘆願であった。彼女の天真爛漫な人格は分っていたが、恐らくH君の夢にかける姿に好意を抱いたのだろう。以前、中野ブロードウエイにあるクラシックという音楽喫茶で、スピーカーのある席で彼を見かけ、あれが芸術家の姿だと言っていたのを思い出した。その姿と、今の私と比較すると、仕事に就いて安定した男と、夢追い人では分が悪い。本来は私だって夢追い人だったが、彼女の為に夢を捨てて現在に至るのだ。

2011年3月29日火曜日

流れるなら (小椋佳)


実家に引越しをした二人は普通の暮らしを始めたのだが、高円寺の仲間との暮らしが忘れられず、彼女は時々遊びにいく様になった。私が仕事から帰っても彼女は高円寺にいる。実家の離れなので家族とは行き来がないので、家では幸せに暮らしていると思っている。夜遅く帰ってくる彼女に、今の暮らしはつまらないかと質問すると、自分は中央線沿線が好きだと言うので、そのうち考えようと諭した。しかし、高円寺のコミユーンの誰の所に言っているのか気になり、私もコミユーンに行ってルーダーに訳を話すと、どうも絵描きのH君のところらしい。私には嫌な予感がしていたのでH君の部屋を訪ねた。

2011年3月28日月曜日

蕾. 【かなうなら夢のままで】 (小椋佳)


そして、夢のようなひと月が過ぎ、仕事も落ち着き給料を貰うと、コミユーン(下宿屋)の人達とささやかな飲み会を開いた。このグループのまとめ役のK氏や絵描きのH君、半年仕事をして半年遊ぶN君、その他漫画家や占い師など、隣の部屋の住人は名前が分らないので風さんと呼んでいた。そんな連中に酒を振舞えば想像がつくでしょう。将来の夢追い人の集会の真っ只中、こんな世界があることを知り感激した。ここに居れば見付からないと思いながらも、彼女の婚約者の影を気にする日々が続いたのだ。そして、大家さんとの契約で3ヶ月だけ、という日が来たので私の実家に引越しをする事になった。

2011年3月24日木曜日

再出発

TVのニュースも少しずつ平常時に戻ってきたし、放送される被災者の状況を見ても、とても前向きで頑張っています。私もショックから立ち上がり、天変地異を責めても何も始まらない事を感じました。支援の方々もかなり増えてきて、原発も少しずつ好転してきたので、少し安堵しています。来週あたりから、更新をしたいと思います。とにかく前に進むしかないんですよね。

2011年3月13日日曜日

東北関東大震災

このたびの東北地方太平洋沖地震の被害に遭われた皆さまに、
心よりお見舞い申し上げます。

こんな状況で更新していられません。しばらく休みます。

2011年3月11日金曜日

スタンドスティル(小椋佳)


若い二人には時間はあるが貯金はない、いつまでも遊んではいられない。生活をするため仕事探しがはじまった。それは丁度、小椋佳さんがNHKではじめてコンサートをすると言う時期だった。仕事が見つからない私に、彼女は、自分がキャバレーのホステスをするしかない、と言い放った。隣の住人の部屋からコンサートが聞こえてくるのを聴いて、彼女は、そわそわする私を責める。どうして愛し合う二人が、こんなにぴりぴりして傷つけ会うのか、若い日の愛情は肝要ではない。ついにコンサートは終わり、二人とも嫌な気分で一日が過ぎた。そして実家の母の紹介で日本橋の海苔屋に勤めたのはその後すぐだった。彼女も近くの茅場町で喫茶店に勤め、毎朝、二人で出勤する事になった。

2011年3月10日木曜日

白い一日(小椋佳)


そこは高円寺川の上を蓋をした、暗渠の上が公園歩道になった、環七に近い大きな下宿屋でした。私は追われる身なので、夜のクラブのバイトを辞め、毎日彼女とじゃれ合って過ごし、白い何週間が過ぎた。相手の婚約者がどんな気持ちか、なんてやっと今頃わかったような気がする。突然愛する人を奪われたら、必死に探すに決まっている。彼女に見せられた”コング”という雑誌に彼のランキング票が載っていた。しかし、私は彼女を解放するために騎士になり、ただ突っ走ったのが真相だ。知り合いの、伊豆の別荘を借りたりして逃亡生活と、コミユーンでの仲間にかばわれての、二重生活が生活苦に拍車をかけた。

2011年3月9日水曜日

ゆきどまりの海 (小椋佳)


そのデートから僕達はどんどん急接近して行き、彼女の夜逃げに加担して婚約者の来ない日に、それは結構されたのでした。行く先は、彼女の知り合い達が住んでいるコミユーンと言う所です。そこは旧い下宿屋で、トイレ厨房が共同で、4畳半の部屋が十室以上ある不思議なアパートでした。住人は絵描きや漫画家、色々多様な人達で、彼女が何でこんな場所を知っているのか不思議だった。兎にも角にも、そのアパートの大家さんより期限付きで入居の許可を頂いた。その日から、彼女との同棲生活が始まったのだ。

2011年3月8日火曜日

めまい (小椋佳)


彼女の部屋で夜を過ごし、彼女は疲れてベットでお眠、わたしはソファーでうたた寝。今思えば純情だったんですね、大人の恋であったらストーリーは決まっていたのに、そのまま夜明けまで何もなく、わたしは始発で帰りました。前の晩に彼女から聞かされた身の上話が、頭の中で渦を巻いたいた。彼女には婚約者がいて、その彼がキックボクサーで暴力的なので別れたいと思っている、どうしたら彼から逃げられるか、と言う悲痛の思いだった。私の憧れだった北海道に逃げるにも、今は冬で無理な話だ。彼女の苦悩を無視は出来ない、続きはまた明日。

2011年3月7日月曜日

しおさいの詩 (小椋佳)


もう青春を過ぎた人間が、はげしく恋をした、まるでこの歌のようだった。毎日コンパに通い、それからクラブのボーイのアルバイト。そして店が終ると、店のバーテンさんなんかとスナックで夜明けまで飲んでいた。スナックにはギターの弾き語りが居て、仲良くなったら私にも歌わせてくれた。弾き語りは結構休むので、何時しか私の役目になっていた。そんな毎日が一年以上続いたある日、レディスコンパの彼女とデートする事になった。彼女のアパートは阿佐ヶ谷だったので、中野ブロードウエイでデートして、夕食の後、彼女の部屋へ行きました。この先はまた明日。

2011年3月4日金曜日

私の悲しみには (小椋佳)


何の気なしに入ったレディスコンパで、友人と楽しく飲んでいたら、すこし色黒でストレートのロングヘァーの娘が、ミルクセーキを作っていて卵を落とした。そして、わたしにこう言ったのだ、[貴方があんまり見ているから落としちゃったじゃない]。その言葉に脳神経が異常に反応してしまい、人生がひとつの方向へ走り出した。次の日から彼女目当てに毎晩、正確には毎夕、この店に通いつめた。ここで少しアルコールをいれて、その足でクラブのバイトに出勤と言う日々が始まったのです。勿論、この店にも小椋ケイ、と言う源氏名で通っていました。その当時聞いていた曲は、この様な理屈っぽい歌でした。

2011年3月3日木曜日

道草 、その他 (小椋 佳)


最初に彼の歌を聞いたのは”屋根の無い車"という曲だったが、聞き込んでゆくうちに、当時の私の詩人に成りたいと言う望みと合致して、私は彼の歌にのめりこんでいった。時を同じくして、私は失業のさなか、ちいさなクラブのフロアーボーイというアルバイトを初めた。当時H社の車を所有していましたが、維持費もなく友人にあげてしまいました。そのお礼に友人から、一杯お酒でも御馳走するという誘いで、当時流行っていたレディスコンパという、カウンター席だけの、健全なショットバーで接待を受けた。何処から視ても人生の転換期に、本当に人生にかかわる大きな出会いがそこに待っていました。続きはまた明日。

2011年3月2日水曜日

木戸をあけて (小椋佳)


この歌を聴いたのは20代後半だった。社会に出て、人生勉強の最中、打ちのめされ半挫折状態だった。しかし、私には実家と母があったので、全挫折はなかった。遠くに旅に出ても、かならず待っていてくれる母がそこに居た。その母も去年の暮れに亡くなり、旅から戻っても家の明かりはもう無い。考えてみると、母との付き合いは50年以上にもなるのだ、その人が居なくなって寂しくないはずがない。裏の木戸を開けて、そっと旅に出ても、その冒険を語る相手が居ないと楽しくない。いろんな意味で大切なひとでした。

2011年3月1日火曜日

愛燦燦 (美空ひばり wis小椋佳)


ひばりさんの為に小椋佳さんが造った曲が”愛燦々”でした。私の好きな昭和とともに消えた星、美空ひばりさんと、その生き方哲学に憧れた私の憧れの小椋佳さんのコラボはゆめのようです。昭和の歌姫は偉大ですが、小椋佳さんの思想に感銘を受けて、一時、小椋佳さんの名前で活動した事があります。ある事情により私の姉が水商売の店に勤めていました。私が休職中だったので、その店を手伝う事になりました。姉弟で同じ店の同名はおかしいので、私は音楽が好きだった小椋佳さんを名乗る事になりました。それからの物語は、私は佳チャンで生きたのです。佳チャン時代を少し話しましょう。ちなみに焼酎の燦が出たのはこの年です。