2010年3月31日水曜日

愛の奇跡 (ヒデとロザンナ)


芸能界の兄貴分で早く亡くなった人にこの人が居る。出門ヒデさん、と言うよりもヒデとロザンナで有名ですよね。イタリヤ女性が惚れるほど、イタリヤ男性よりも情熱家の日本人ヒデさん、と言う人は、水原弘さん的な性格で、男にも女にもよくもてたのです。ジンクスで憎まれっ子世にはばかる、では無いですが、お人好しの短命、と言う事になる。私も人に好かれるように生きて来ましたが、長生きをする為に今からでも嫌われ者になろうと思います。しかし、ここまで生きてこられたのは、実は、嫌われていたりして?。どうかな?。

2010年3月30日火曜日

黒い花びら (水原弘)


ヒロシ旋風の長老と言うか重鎮、水原弘さんは”黒い花びら”で大ブレークした。その後、黒いシリーズを出したが、そこそこだったのに、当時のスターは見栄や虚栄心が強く、水原さんは高級車に乗って、舎弟を引き連れ豪遊を続けていた。酒の量も半端ではなく、体も壊していた。奥さんの献身で復帰を果たし、”君こそわが命”と言う曲で蘇えった。しかし、無理をした付けはたまっていた。せっかく再起した歌手活動も突然休止、間もなく帰らぬ人となりました。ある意味、流れ星のような大スターだったのかも知れません。

2010年3月29日月曜日

有難や節 (守屋浩)


守屋さんは、いまでは音楽会社の重役になったそうですが、この曲をヒットさせた頃は、変わった歌を色々唄っていました。”僕はナイチッチ”などと言う訳のわからないタイトルの曲や、この”有難や節”と言うお経の様な唄は、けっこうヒットしたようです。リメイクでソウルフラワーと言うグループが踊り付きで再度レコード化したくらい、意味深い内容なのでしょう。確かに現在の私が理解するに、有難いお言葉に聞こえますが、子供の頃に面白可笑しく口ずさんだ楽しい思い出の唄です。♪有難や有難や×2♪なんと楽しいテンポじゃないですか。

2010年3月28日日曜日

霧の中の少女 (久保浩)

当時の典型的好青年のスタイルで、日本青年の在るべき姿、といった人でした。後の舟木和夫や三田明という流れを創った人でしょう。なぜか学ランを着た歌手が増えたのも、この人からかも知れません。♪涙果て無し雪より白い、花より白い♪、どんだけ白いんじゃ、と突っ込みたくなるような歌詞ですが、引き込まれるのです。もともと、兄貴の買い集めたレコード群ですが、私が友人の家から貰ってきたホームプレーヤーを修理したものを、みんなで使っていたので、好きに聞いていました。親父の詩吟まで聞いていましたので、今でも、何でも聞きます。

2010年3月27日土曜日

雨に咲く花 (井上ひろし)


ひろし旋風の一人めはこの人だ。今で言う草食系イケメンでナヨッとした魅力で、当時で言えば宝ジェンヌ的スタイルの歌手である。その頃はピーターなんてまだまだ出て来なくて、男女(おとこおんな)なんて呼ばれてマイナーだったのだ。宝塚のように華々しく、歌舞伎のように歴史もない、今で言うニューハーフ的なものは、国賊扱いだったスタイルも、歌謡界ゆえにギリギリ許されたものでした。普通にみれば、奇麗なスーツの青年ですが、今風の考察でみるとそんな感じがします。”雨に咲く花”は名曲になりました。ヒット後もいろんな人がカバーしています。

2010年3月26日金曜日

湖愁 (松島アキラ)


テレビでラッシーが流れていた頃、歌謡界でスピッツが売れていた。彼は戦中生まれで、私達の兄貴世代なので、あまり興味は無かったのですが、兄姉なんかが騒いでいたからでしょう、一応聞いていました。大人になってから聞くと、意味も分かっていい歌だと思いますが当時はまだ子供、”東京ドドンパ娘”のほうが面白かった。この頃松島アキラとは別に、ヒロシ旋風が流行っていました。井上ひろし、久保浩、カマヤツひろし、それに、水原弘、守屋浩なんていう人達が人気争いをしてたのでした。私はあまり関係なくて、駄菓子や通いが楽しい時期でしたね。

2010年3月25日木曜日

名犬ラッシー (アメリカドラマ)


名犬物の筆頭だと思うのはラッシーだろう。動物物はウオルトディズニーなんか、かなり作っていたのでしょうが、お茶の間で毎週観られる連続物は、制作費も掛かるし撮りだめも必要だからいい加減には作れない。それに、敗戦国にもお下がりして使用するためにも入念に企画された作品でなければならない。その要素を見事に遂げた作品がこれだ。ドラマの影響はペットブームにも火を着け、コリー犬は世界中で大人気になり、犬の種類がラッシーだと思っていた人もいたぐらいであった。それまで多かったスピッツがコリーに変わっていったのだ。

2010年3月24日水曜日

ザ.ローン.レンジャー (ウイリアムテル)


英雄物で、ローンレンジャーというヒーローがいた。うろ覚えだが、インディアンの舎弟でキモサベと言うのが居たような気がする。そして、主題歌は、ずっとこのドラマの曲だと思っていたのだが、中学校で音楽の時間にウイリアムテルだと知り、音楽は疑って聴くべしと悟った。ある種スーパーマンのウエスタン版ではないかと思われる。友達のお父さんが声優をしていたので裏話を聞いたことがある。インディアン風の言葉は、逆に読んだら日本語になると言うのである。例えば’ハイ、コンニチワ’と言う時に’イハ、ワチニンコ’と言うとインディアンの言葉に聞こえるらしいのである。

2010年3月23日火曜日

ローハイド (フランキーレーン)


この番組は白黒でした。いまでこそ有名な俳優で、監督でもあり、政治の世界にも出たあの人をはじめて見た番組だった。クリントイーストウッドが血気盛んな若いカウボーイ役で出演していたのだ。あと、食事当番のアル中であごひげの爺さんも覚えている。この曲は日本でもヒットして、中に入っているムチの音にところで、スリッパを叩いて唄っていました。なんか、植木等の(お呼びでない)が出て来そうなんですが、もうすこしアメリカドラマシリーズを続けようと思います。思い出すときりが無いくらい次々と出てきます。英雄物や名犬物、宇宙物や保安官物、今考えるとよくまあ勉強もしないで、テレビばっかり観ていたものかと関心する。

2010年3月22日月曜日

ララミー牧場 (テレビドラマ)


戦後生まれの私が、モンローやオードリーの映画をリアルタイムで見たわけではない。勿論再上映で見たので、当時のアメリカを知ったのはテレビドラマやウエスタンでした。印象深いは’ララミー牧場’や’ローハイド’などのウエスタン物でした。内容はほとんど覚えていませんが、家族構成やテーマソング、そして、はじまりのシーンは特に覚えています。馬が川を渡るとき、水煙を上げるとタイトルが出た来たり、最後に幌馬車の後ろから凧が上がっていたりするシーンが、今見るとカラーだったのに驚きです。貧乏人の家では白黒テレビしか買えなかったし、中古ですカラー(おやじのダジャレ)。

2010年3月21日日曜日

ムーンリバー (オードリー.ヘップバーン)


アメリカの女優でグラマーの正反対にオードリーがいる、春日とはまったく関係ない。モンローと反対にセクシーではなく貴賓を売りにした俳優です。’ティファニーで朝食を’の中で、窓辺に腰掛けて、ギターを奏でながら唄う”ムーンリバー”は最高です。私が今でも気になるのは、彼女が爪弾くスリムなギターです。何処製のギターなんでしょう。見たところガットではなく、アコースティックのスチール弦に見えます。糸巻きの形で解るのですが、メーカーまでは見えませんし、ネックの押さえ方などで本人が弾いていないのは分かります。ギター好きの考癖で、すぐに製品のスペックが気になってしょうがないのです。

2010年3月20日土曜日

帰らざる河 (Marilyn Monroe)


日本とアメリカの始めての衛星中継放送、そのテスト放送が大統領暗殺だったのでした。マリリンモンローも若くして不可思議な死を遂げました。まだ中学生だった私は、良くない思いに駆られました。こんな小さな独りの人間でも、この手で歴史を変えられるんだ、そんな不徳の思考です。でもその悪意の考えはすぐに消えました。何故なら、親兄弟にイッパイ愛情をかけられ、育てられたからです。私に係わる人達を悲しませる行為は出来ない、どうせ世界を変えるなら、みんなが喜ぶ方法でやりたいと思いました。テロや暗殺を行う人は、子供の頃に愛情を受けなかったのでしょう。やはり、世界平和のカギは愛情だと思いました。

2010年3月19日金曜日

お熱いのがお好き (マリリンモンロー)


マリリンモンローといえばイコール、アメリカ、そんな時代がありました。私は少年で、彼女の魅力は分らなかったのですが、後から雑誌などで読んだ記事に、朝鮮戦争の兵士の慰問に行ったのを知りました。たしか、ベトナム戦争の映画の中で、そんな描写があったような、うろ覚えですが、気がします。彼女が存命の時は知らないのですが、ケネディ大統領との関係とか、いろいろ話題の豊富な人だったらしいですね。ケネディ暗殺の時、休日で、私は貸し自転車に乗ってサイクリングをしていました。友人三人と所沢の米軍基地(今の航空記念公園)の入口で、只ならぬ雰囲気に事情を知りました。(明日に続く)

2010年3月18日木曜日

マリリンモンロー ノーリターン(野坂昭如)


型破りな歌が流行った時代に、破廉恥を売り物にこんな作家が曲を創った。もちろん、自分で唄い、学生運動をしていた連中を煽り立てた。三島由紀夫にような極右ではなく、右も左も真っ暗闇な世界観が受けていたようだ。歌詞といっても、抽象的で、まるでピカソの絵画のようである。よくもこんないかれた詩が書けるものだと感心した。この人の凶暴性は有名で、テレビで放映された大島渚との殴り合いでも知られている。我慢をしない、かっとなったら暴れる。こんな人だから物書きが出来るし、仕返しをする人も凄い映画を創れる。ある意味羨ましい性格である。殴り合いのシーンが末代まで残るだろう。  http://www.youtube.com/watch?v=n1CNy0eIzuY

2010年3月17日水曜日

プカプカ (つじあやの)


私と同じくらい梶芽衣子好きだったのが、親友のI山君。その友達が当時よくカラオケで唄っていたのが”プカプカ”と言う曲だった。色々な人がレコードを出しているが、彼は、女性ボーカルで殿山××、名前を忘れたが姓はそんな名だったような。その人の唄い方が気に入っていた。水割り三杯くらい飲むと唄いたくなるらしい。そのI山君のおかげで、私も数奇な運命に出会い、初代ジャニーズのリーダーと友人になったり、映画配給会社の人達とエレキバンドを組んだり、おかげで、テレビでしか観ない人たちにお会いしたものでした。彼はS社の芸能記者なので、そういった付き合いが多かったのです。私の仕事の関係で、最近逢わなくなりました。

2010年3月16日火曜日

怨み節 (梶 芽衣子)


梶 芽衣子さんが続きますが、この曲は外せないので載せておきます。本名は太田雅子といい、日活から高校を出てすぐデビューしましたが、平凡な名前なので、マキノ監督が梶芽衣子を授けた。美形だが、どこか陰のある顔立ちに、世の男共は魅了されたのです。私もたまたま知り合った人が、彼女にクリソツだったので、それからファンになったのです。最近、日本映画はあまり観ないのですが、あのころ(昭和の終る頃)は、デートと言えば映画だったんです。と言うのも、喫茶店なんかで正面切って会話していても、間が持てず、映画やドライブなど、同じ方向を観ていないと話が持たない、いわば純情だったって事かな。今じゃ穴があくほど見たりして?。

2010年3月15日月曜日

晩夏 (梶芽衣子)

吉田旺先生の作品でこんな曲があります。梶芽衣子さんが唄う”晩夏”という曲です。私は梶芽衣子さんのファンで、女囚さそりと言う映画の頃から歌も聞いていました。三十代の頃に、台湾パブに、彼女そっくりの女性が居まして、猛アタックした記憶があります。結局、言葉の問題や、育った環境のギャップから上手くいかなかったのですが、サファイヤの指輪をプレゼントしたまま別れました。今でも持っているもでしょうか?、若かりし日の思い出でした。梶芽衣子さんのそっくりさん、元気にしているでしょうか。台湾に帰ったのかも知れませんね?。

2010年3月14日日曜日

喝采('89) ちあきなおみ


吉田旺先生の代表曲”喝采”は日本レコード大賞をもらった大ヒット曲です。この頃作詩の勉強中の私は、いい歌だけど♪黒い縁取りがありました♪はいかがなものかと、疑問符をつけていました。ところがところが、結果は大ヒット、黒い縁取りで総てが見えてしまい、細かい説明文を嫌う歌謡詞には最適でした。喪服とかヒツギとか言う生々しい言葉より、黒の縁が聞く人それぞれの世界を創り出すのです。流石に世に出てくる人は才能があるなと関心したのです。私だったら、長々と葬儀の場面を書いていたかも知れませんね。文学詩と違って、歌謡詞の楽しさは街角に流れる。そしてそれを聞いた時に、自分から飛んでいった鳥を見るような、不思議な幸福感なのです。

2010年3月13日土曜日

東京砂漠 (内山田洋とクールファイブ)


前川清さんといえば、内山田洋&クール5のボーカルでしたが、私の友人で中山という男、クール5狂でした。カラオケもすべて前川節で、すごく上手いのです。特に、この曲を唄わせると涙もので、かならず誰か泣きます。ダブルのスーツで髪はポマード、デビュー当時の前川清にクリソツでした。その頃、親友のひとりで、よく飲み歩きました。彼の紹介で作曲家の友人も出来ましたし、夜の世界の勉強も出来ました。この曲を聞くと彼を思い出します。今は音信不通で何処に居るのか解かりませんが、楽しかった思い出や、やばい事を思い出します。この曲の作曲は内山田さんで、作詞は吉田旺先生でしたね。

2010年3月12日金曜日

そして神戸 (前川清)


浜、千家コンビが売り出しの頃、浜圭介先生がラジオの番組で、今度作曲した曲で歌手を選出していますと話していた。その時ギターの弾き語りで、ラテンリズム調のこの曲をご本人が歌唱していました。もともと歌手でしたので自分でレコードを出されても良いくらいです。ヒットに恵まれず故郷へ帰り、屋台の焼きソバやまでしていた苦労時代、作曲家として再起するよう招いてくれた恩人が、自分を捨てずに憶えていてくれた事を、番組のエピソードで語っておられました。そして、苦労人コンビが打った大ヒット”そして神戸”神戸の地震より前に、神戸を有名にしたご当地ソングです。

2010年3月11日木曜日

終着駅 (奥村チヨ)


千家和也さんを一躍有名にしたのはこの曲、”終着駅”だと思います。浅丘めぐみさんの青春ソングもヒットしましたが、人生の喜怒哀楽をこれほど上手く表現した作品はベスト10でしょう。なかにし礼先生の家に押しかけ、付き人をしながら業界に名前を売り、夢を叶えた先輩なんです。一年中黒い服を着て、喪黒福蔵みたいに印象深くして、業界で覚えられたという事です。私達外弟子は、現代作詩講座を一年間、月謝を払って受講したものとは根性が違います。人間夢を実現しようと思ったら、ドラマチックに行動しなければ、劇的に生きられないものなんですね。千家先輩のベストパートナーだった作曲家の浜圭介さんは、私のアイドル奥村さんをものにした。

2010年3月10日水曜日

涙と雨にぬれて (フランク永井 松尾和子)


なかにし礼先生の最初のレコード化作品はこの曲である、”知りたくないの”とか”今日でお別れ”のように、大ヒットした訳ではないが、御本人にとっては記念すべき作品なのでしょう、外弟子間では有名な逸話であります。さるナイトクラブにて、石原裕次郎さんと同席して、故郷が小樽という事もあり、作品のレコード化を持ちかけられた。それがきっかけで作詞家の道へ進むようになった、サクセスストーリーはよくしっています。数居る作詞家のなかで、私も、なかにし礼先生を師と選んだことを誇りに思います。目的は達成できなかったけれど、人生の現象や逆現象など、いろいろ学びました。ちなみに、内弟子は千家和也先輩です。

2010年3月9日火曜日

時には娼婦のように (黒沢年雄)


クロサワヒロシの兄貴といえば黒沢年雄さんですが、俳優では有名です。歌と言えば、唯一ヒットした”時には娼婦のように”である。この曲は、私の師であります、なかにし礼先生が自分でも競作でレコードを出している作品です。若き日の礼先生は、今で言うイケメンで、映画出演もしているほどでした。しかし、礼先生はシャンソンの訳詩などしてたせいなのか、フランス語なまりがあります。♪バカバカしい人生より♪を喉に詰まらせて、♪バガバガしい♪に聞こえるのでシャンソンのようです。聞きたい人はURLを載せておきましょう。
  http://www.youtube.com/watch?v=QPGwn4JY78s&feature=related

2010年3月8日月曜日

三年目の浮気 (ヒロシ&キーボー)


クロサワとくれば”三年目の浮気”ですね。映画のシーンで、マリリンモンローが地下鉄の排気口の上に来て、スカートがふわりは、あまりにも有名です。その映画は”七年目の浮気”ですが、この歌はパクリでしょうね。作詞のキャッチコピーではよくある手法です。あの阿久悠先生はよくやっていました。何故なら、だいの映画好きですから当然です。映画のタイトルは、日本の配給会社が営業会議や評論家等が決定しますので、そうとう内容の濃いタイトルになっているので、歌謡曲の作詞家としてはおいしい台詞なんです。ちなみに、この曲は詩曲とも、”あなたのすべてを”で知られる佐々木勉先生です。ヒロシ&キーボーもユニークでしたね。

2010年3月7日日曜日

若者たち (ブロードサイドフォー)


有名人の子供といえば、黒澤明監督の息子さんもブロードサイドフォーというフォークグループに居ました。テレビドラマの”若者たち”の主題歌を歌っていました。このドラマは人気があって、映像に出てくる隅田川沿いの、お化け煙突はもう無くなってしまいましたが、昭和の思い出です。♪君の行く道は♪、いまでもフレーズが出てきます。戦後の高度成長期に、若者に立ち塞がる矛盾。私は子供だったので、深い意味など分からず、ただこの歌だけが昭和の欠片として残っています。黒澤久雄さんは、いまはお父様の記念館関連の事務長だそうです。

2010年3月6日土曜日

ザ・サベージ メドレー


その頃、日本ではエレキ旋風が吹き荒れ、テレビではアマチュアバンドの登竜門である、’勝抜きエレキ合戦’という番組を放送していた。プロ顔負けのチェックメンとかザ.サベージと言うグループが目立っていた。後にサべージは優勝してプロデビューしましたが、その中に俳優の宇野重吉氏の息子さんの、寺尾聡さんがいました。その後彼はシングルで”ルビーの指輪”という曲でレコード大賞をとっています。だけど蛙の子は蛙で、いまはいい俳優になっていますね。あのころは、若者みんなエレキにしびれてました。

2010年3月5日金曜日

新生ベンチャーズ,メドレー


やっぱり一番影響を受けたエレキバンドはベンチャーズだろう。現在はドラムスのメルティラーが亡くなり、その息子が後を継ぎました。この間、ベース担当のボブボーグルも亡くなり、ベンチャーズの危機は続く。そして、新生ベンチャーズの登場だが、リードのジェリーマギーがベースを弾いているではないか。もうこれだけ続いていると、だれが弾いても同じである。最初のメンバーで変わらないのは、リズムギターの首領ドンウイルソンだけだが、ここまで解散もせず来たのが奇跡である。ある意味青い眼をした日本人でもある。彼らが居たからエレキギターを覚えたようなものである。心から感謝しているしだいである。今度のリードはレコーディングなどのバックアップメンバーのボブスポルディングである。

2010年3月4日木曜日

パイプライン (The Chantay's )


はじめてのエレキギターは友人のお下がり。仲間に入れてあげるからと、中古のテスコギターを買わされた。ダルマのような格好をした、ピックガードにストライプがある、サンバーストの塗装だった。詳しい人はこれだけで、ああ、あれかと判る筈である。そして、パートはサイドギターで、太い方の二弦を、交互にポンパポンパと弾くだけである。実に簡単で、そればっかりやらされて、他の曲は別の人がやって、結局ギターを売り付けられただけのようだ。だから、一人で独学になって、大人になるまでバンドを組んだ事がない。パイプラインのサイドを正確に覚えたのは大人になってからだ。最初に聞いたパイプラインは、確かシャンティーズだった気がする。

2010年3月3日水曜日

太陽の彼方に (アストロノウツ)


エレキサウンドのはじめてレコードはこれ。これを聞いた時には鳥肌がたった。シンセサイザーなんて知らないし、エレキギターでさえ日本では珍しい時代。なんだこの音は、まさにぶったまげた、と表現するしかない。その頃は知らなかった、リバーブという装置が創り出すスーパーサウンド。この装置を作るため、その後糸電話のようにスピーカーとマイクの間に、細くて柔らかい針金でバネを巻いて、手製のリバーブエコーを造ったりして実験をした。この経験がエレキギター狂いのはじまりで、はじめてのエレキギター、テスコ社製のエレキ購入へと繋がったのである。

2010年3月2日火曜日

孤独の世界 (P・F・スローン)


はじめて買った洋楽レコードはこの曲だった。意味はまったくわからず、テンポがよく、口ずさむのに簡単だった。理由はそれだけで、歌詞を訳してみたりした事もない。♪ハビューエバーハー♪今でも忘れないで口ずさめる、耳から英語だ。その頃歌詞を見て憶えた事はなく、耳から聞こえた音を、日本語的なフレーズにして憶えたものだから、英語としては全く通用しない。外国旅行をする時に憶える、斉藤寝具(観光)や掘った芋いじるな(今何時)みたいな、なんちゃって英語なのである。そんないいかげんな歌詞で洋楽に親しんでいた少年時代ひきついで、現在のいい加減なオジサンに出来上がったのだと確信している。

2010年3月1日月曜日

すきやき (坂本九) 上を向いて歩こう


はじめて私がお小使いで買ったレコードがこの曲でした。実は、兄姉に乗せられて買わされたのでした。自分達はお目当てのレコードを買い、私にこのレコードを買わせて自分達も聞けるので薦められたのです。その時、景品に付いて来た陶器で出来た犬の置物、ビクター犬(白黒の犬)は今でも私の宝箱に眠っています。坂本九さんがこの曲を出した時に、私が小学生だった事で、私の世代もばれてしまいますね。”上を向いて歩こう”は正に、私の音楽収集の原点だった。ソノシート(ペラペラなレコード)ではなく、黒いドーナッツ盤の初めてのマイ.レコードでした。