2010年2月28日日曜日

悲しき60才 (坂本九)


坂本九さんは、ご存知のとおり、JAL123号機の遭難で悲しい最後をとげられました。夏の夕方、テレビで懐メロポップスの番組のテロップニュースで、日航機が消息不明と報じていました。まさか、その飛行機に乗っているとは知りませんでした。その事故現場の近くを私はよく走っていたので驚きました。奥秩父から中津川林道を抜け、川上村から八ヶ岳へ抜ける峠の右、御巣鷹の尾根に墜落したのでした。彼が歌っていた”悲しき60才”まで、坂本九さんは生きられなかったのです。つくずく人生は明日の事さえ分からないと実感しました。あれから、あの付近を通ると、車を停めて合掌しています。もう、相当時が流れてしまいました。

2010年2月27日土曜日

ビキニスタイルのお嬢さん(1990)

ザ.ヒットパレードの常連で、ダニー飯田とパラダイスキングというバンドがいた。坂本九さんもユニットで組んでいたが、メインボーカルに佐野オサムさんと石川ススムさんがいた。石川さんは後に子供番組でロバドンというキャラクターの声で人気者になった。そのパラキン(縮めて)のヒットで”ビキニスタイルのお嬢さん”と言う曲が大ヒットしたのを思い出した。ヘイポーラ、とか恋の片道切符などという懐かしのポップスが目白押しで、老いも若きもよく観ていたロングラン番組も、いつかは飽きられる時が来るのであった。その後、バラエティー番組が出てきたので,パラキンはコントもやっていた。

2010年2月26日金曜日

スカイライナーズ (スマイリー小原)


その古き良き時代を映画の一場面で観てみると、我らが少年時代が走馬灯のようにくるくると蘇える。昭和の好いところは、この中に見える庶民的なつながり、輪=和というものを大切にする雰囲気だ。平成を悪く言うのではなく、昭和が楽しかった、目標があった、人情があった事を言いたいのだ。平成に無くなったものは、具体的には言えないが、すべてが希薄になった事は確かだ。倒れてる人に何人の人が声を掛けるだろう、火遊びしてる子供を怒る人がいるだろうか。踊る指揮者は見るからに温かい。昭和の男子はこんな人だ。(歌手は六本木族の藤木タカシ)

2010年2月25日木曜日

ミスターベースマン (ジョニーシンバル)


スマイリー小原という指揮者がいて、いろんな人がこの曲を歌いました。そして、合間のベースマンのフレーズをスマイリーさんが歌うのです。原曲はジョニーシンベルが唄っていましたが、日本では何人かの女性歌手が歌って、ナブプロのなかで評判がいいとレコード化するような、じつに適当にやってた、古き良き時代だったのですね。このスマイリー小原と言う指揮者は、踊って指揮をするので、歌手よりも目立ってしまうのです。この当時、和製リズムでドドンパ、スクスク、チャチャチャなどの流行にいち早く見本を示して、ダンス教師みたいでしたね。私達もスマイリーを見てダンスを覚えたものです。

2010年2月24日水曜日

ザ・ヒットパレード (オープニング)


♪引っ張れー引っ張れーみんなで引っ張れー♪と、またいい加減な日本語をつけて唄ってました。園マリさん伊藤ゆかりさん中尾ミエさん、三人娘といえば”ザ・ヒットパレードですよ。この番組は欠かさず、家族で見ていました。その後のベストテンなんかの元祖とか本家になる番組でした。演歌は少なく、洋楽に日本語訳をつけて紹介する番組で、渡辺プロが全力で製作した娯楽番組でした。ここで紹介されたアメリカのポップスやイタリアのカンツオーネなどで、これからヒットする話題曲を捜したのです。あの頃オリコンなんて有りませんでしたので、湯川れい子さんや星加ルミさんの情報通の雑誌を買ったり、この番組で聞いたりしました。

2010年2月23日火曜日

何も云わないで (園 まり)


この曲は、姉が気に入って聞いていました。平尾先生を献身的に支えた方は、噂でありますがこの方だそうです。赤坂の一ツ木道りの脇道に、彼女が経営する花屋がありました。TBS(東京放送)で私達ファン倶楽部の関係者は、ここで花束を調達したものです。前にも書きましたが、ある少女歌手の後援会の副会長を任せられ、毎週学校を休んでラジオ番組に係わっていました。突然花が必要になるときもあるのです。まるでマネージャーのアシスタントのように、買い物、届け物なんかを頼まれて、もっとひどい時には、ストーカーから守る、ボディガードみたいな事までしました。

2010年2月22日月曜日

カナダからの手紙 (平尾昌晃/畑中葉子)


畑中葉子とデュエットで”カナダからの手紙”で歌手として復帰した平尾先生は、身体の方もだいぶよくなり、普通の生活もできるようになったので、まずはよかった。噂によると、ある女性歌手の献身的な介護というか、つよい支えで健康を取り戻したと言う、女性週刊誌的情報もあるのだが、これは定かではない。”霧の摩周湖”などの名曲を創りだした元動力に、病気に打ち勝とうとする気持ちがあったのかも知れませんね。いまカナダで冬期オリンピックの真っ最中ですが、この歌はなぜカナダなんでしょうね?。ハワイやマウイではいけない事は作詞家の端くれとしては解かるのですがね。

2010年2月21日日曜日

星は何んでも知っている (平尾昌章)


平尾昌章先生は布施氏の曲を書いているが、自身も歌手だった頃はこんな曲を唄っていた。なんか、田舎の青年が初恋をしたみたいな曲で、伴奏はインディアンの踊りのようで可笑しい。この頃”悲しきインディアン”て曲が流行っていたのでパクったのかも知れない。でも、平尾先生はウエスタンカーニバルなんかで人気のあったロック歌手のひとりだった。時代が私と少しずれていて、私の頃は日劇ウエスタンカーニバルはグループサウンズが主流で、プレスリーの物まね歌謡曲はもう消えていた。その後、身体を壊した平尾先生は作曲家に転向したようだ。

2010年2月20日土曜日

恋   (布施明)


恋愛と一括りで言ってしまうが、愛と恋の違いが解からない人に歌は書けない、そう教わった。覚めるもの、それは恋、消えないもの、それが愛。今流行りの事業仕分け的に歌を見てみよう。恋を愛と歌っている楽曲がある。またその反対もある。歌を聞く時、それを意識して聞いてみると、面白いことが分かって来る筈です。無意識に作詩して、心変わりや浮気心に愛を使う時は慎重に。実生活でも同じことが言える。愛というのは、その人の為に死ねる事で、その覚悟が無いうちは恋なんですよ。恋が育って愛になる。だから恋愛の間には時間と言う字が隠れているのです。

2010年2月19日金曜日

骨まで愛して (城卓矢)


愛と死のミコは骨肉腫で亡くなったが、その頃流行った曲でこんな歌があった。北原じゅん作曲、川内和子作詩の”骨まで愛して”。私は当時十代前半で、この曲の内容など全く解からず、川内庚範先生の世界観も知らず、(和子名は奥さまの借名)最近になって、やっと愛する事の真髄らしきものが理解出きるようになった今日この頃です。作曲の北原先生は歌手、城卓矢氏の実兄で、城卓矢氏は川内先生の甥という複雑な曲であります。骨まで愛する事が出きれば最高の愛です。だからと言って、見た目だけ愛する軽い愛もあるでしょう。でも、愛には時間が要るのです。愛に育つ前までを恋と言うのです。恋は病気みたいな物で、熱が下がれば直ります。

2010年2月18日木曜日

愛と死をみつめて (ドリカム)


なぜこの曲なのかと言うと、梓川の流れる信濃路が歌詞に出て来ること。もともと信濃がすきで、若い頃から何度も訪れて、心癒されている大自然のありがたさを、信濃路という条件反射で癒され、思いを馳せる性格なんです。でも、この物語は泣かされました。ミコマコ現象というか、こんな二文字カップルが増えたのもこの小説のヒットからだと思います。私も、○○、××と呼び合う経験をした事があります。でも、喧嘩したり、嫌いになったりする別れと違って、死別ほど悲しい別れはありません。以前取り上げた”ある愛の詩”もそうでしたが、生老病死では最高の悲しみでしょう。

2010年2月17日水曜日

あずさ 2号 (狩人)


戸倉俊一先生は大信田礼子さんと結婚していました。そして、戸倉先生の曲で印象的だった数ある曲の中で、竜真知子先生作詩の”あずさ2号”は特に思い出があります。作詞家志望だった私は、友人の紹介で、日本作曲家協会の会員である英孝二(ペンネーム)氏と知り合い、よく、喫茶店なんかで作曲談義をしていました。ある喫茶店で、”あずさ2号”の話をしていたら、後の席にいた日本ビクターの人の耳に聞こえたらしく、話に割り込んできて、名刺を下さいと言われた。英(ハナブサ)氏は立派な名刺を出したが、私は無かった。彼らはその後会ったのだろうか?。

2010年2月16日火曜日

同棲時代 (大信田礼子)


大信田礼子さんの”同棲時代”を聞いて、まさか、自分が同じような生活をするなんて、思っても見なかった。この歌は少し過激だが、人生の後先の事なんか考えなかった事は確かだ。お互いに、実家があって、何不自由なく暮らせたのだけれど、彼女には婚約者がいた。その彼は現役のキックボクサーで、私としては逃げるしか無かった。暴力的な彼に愛想をつかし、たまたま知り合った私に助けを求めた彼女は、北海道へ行こうと言っていたが、そんな金も無く、高円寺の知り合いの部屋に転がり込んだ。その先は....またの機会にしましょうか、さきは永い。

2010年2月15日月曜日

ざんげの値打ちもない (北原ミレイ)


北原ミレイさんをテレビで見たのは、この曲が最初だった。上村一夫さんの劇画のために、阿久悠先生が書いた歌詞で、意味深い内容の物語。漫画を劇画といって、小説などのように、文学作品と同等の価値観を抱いた風潮があって、シリアスなものを描く作家が沢山いた。GAROという漫画雑誌が飛ぶように売れた時代で、私もチャレンジしたかったが才能に恵まれなかった。私が高円寺の安アパートで同棲時代を過ごして居た頃、そういった環境で劇画家を夢見て、食うや食わずで修業していた仲間が何人かいた。仲間だったのか、貧乏人のコミューンだったのか。だけど、楽しかったなぁ。

2010年2月14日日曜日

石狩挽歌 (北原ミレイ)


挽歌で連想するのは”石狩挽歌”です。この曲の舞台は石狩湾、そのイメージに惹かれて二度も小樽をおとずれた。曲の中に出て来るオタモイ岬に行った時はおどろいた。細い山道に古い集合住宅があり、そこを過ぎるとくねくねとした下り坂が続く。やっと着いた所には、平らで何も無い平地があった。海辺までは更に10メートルほどあって、丘の上には尖った岩があるだけ。昔ここに鰊御殿でもあったのだろうか。♪オンボロロ、オンボロボロロ♪という、跡形も無い。♪沖を通るは笠戸丸♪というくだりは、みんなブラジルあたりに移住したんだろう。まるで廃れた金山にようだ。

2010年2月13日土曜日

愛の挽歌 (つなき&みどり)


三原綱木さんの元奥さんの田代みどりさん、憶えてますか。新婚当時、ふたりで曲を出した事がありました。”愛の挽歌”、曲が災いを起したのでしょうか、その後、離婚してしまいました。結婚式は、たしか湘南のパシフィックホテルでやったのでした。加山雄三夫妻が仲人だったような?。古い話をもちだして、申し訳ありません。でも、そういう積み重ねの上に、今の自分がいるのです。温故知新なんて言葉がありますが、決して昔の自分を否定して、消しゴムで消すように過去を抹殺しないで下さい。思い出したくない過去も、いつか奇麗な花を咲かせます。私もいっぱい持ってます。

2010年2月12日金曜日

お嫁サンバ (郷ひろみ)


サンバで浮かぶのは”お嫁サンバ”。たしか、私の記憶では、この曲の相棒にブルコメ(当時)の三原綱木さんが合いの手で、♪あの街この街♪と歌っていたのを憶えています。彼も、あの頃はまさか、自分が指揮者になるとは思わなかったでしょうね。あの、ダン池田事件が運命を変えたのでしょう。知らない人いますか?。歌謡曲のバックバンド、ダン池田と二ユーブリードで、若い歌手になめられて、頭に来て仕事を放棄したダン池田。そして後のポストに三原氏が入ったと言う事でしたね。ダン池田さんは成増でカラオケ教室をしてるらしいが、人間辛抱だと、つくずく思います。

2010年2月11日木曜日

別れのサンバ (長谷川きよし)


盲目の天才といえば、日本にも居ます。長谷川きよしは”別れのサンバ”のヒットで世に認められ、華麗なるラテンギターで人々を魅了していた。私もスナックでコピー演奏をしたが、やっぱり、なんちゃってギターで、それっぽく、ギターを叩いたりしてカッコつけるのだけど、肝心の指がついてこない。弾き語りでは、けっこうごまかして、演奏はしましたが、みんな酔っ払いですから適当に聞いてました。スナックで、ボランティアみたいにタダ同然で弾いてたので、文句言う人はいませんでした。だけど今聞いてもいい曲ですね。

2010年2月10日水曜日

スーパーステーション (スティービーワンダー)


ディスコといえばモータウン。そして、スティービーだろう。当時相当流行った曲で、知らない人は居ないというくらい、これでもか、と言うくらい流されていた。曲が流行っていた頃に、彼が盲目だなんて知らなかったし、どうでもいい事であった。こんな素晴らしい曲が作れるなんて、五体満足の自分からしたって羨ましい。ディスコでもブラックコンテンポラリーとかで、ソウルミユージックが主流で、黒人好きの女性も多かった時代だ。黒人を求めて横須賀の基地まで遠征した女もいた。私の知り合いにも居たが、アメリカに移住してしまった。

2010年2月9日火曜日

アイノコリーダ (クインシージョーンズ)


”愛のコリーダ”と言うディスコミュージックが流行った。ディスコブームだった頃。赤坂のムゲンや麻布ズッケロなんかに行ってたころ、人気のあった曲でした。まだバブル前で猫も杓子もディスコと言う時代ではなかった。通の遊び人という感じの人達が多かったので、お立ち台なんて勿論なかった。ゲームタイムなんかあったり、風船割りなんかすごく楽しかった。チークタイムとかもあったりして、けっこう健全な不良っぽいグループがほとんどだった。あのプロレスのブッチャーなんかも来ていて、踊りも上手だった。いい時代だったな~。

2010年2月8日月曜日

愛のコリーダ (大島渚監督)


渚で大島、大島渚だ。偶然だけどそうなってしまった。二十代後半にテストドライバー仲間のK君とサンスポの芸能担当のI君、悪友三人でグアム島へ遊びに行きました。勿論、目的のひとつに”愛のコリーダ”無修正がありました。街のシアターは日本でいう場末の映画館のようで、300人劇場のようでした。映画が終わり明るくなったら。なんと、セーラー服の自衛隊がいっぱいいる事。こういうのってありなんでしょうか。制服でエロ映画見てる自衛隊員に驚き、今見た映画を忘れてしまったくらいでした。思えば、あれが初めての海外旅行でした。

2010年2月7日日曜日

渚にて ON.THE.BEACH (人類最後の日)


渚にて、と言う映画がありました。子供の頃でよく覚えていないのですが、第三次世界大戦が起きて、人類が滅亡するという映画です。グレゴリーペックが出演するので相当古い映画です。私はこの映画の中で歌われた曲を、♪大島宇宙だ、大島宇宙だ、行こう大島宇宙だみー♪なんて、勝手に日本語の訳のわからない詩を付けて唄っていました。こんなに恐ろしい内容の映画とも知らずに、行進曲のように♪大島宇宙だ♪なんて馬鹿げた事をしていました。大人になって、それが”Waltzing Matilda”だと知りました。他愛もない子供の頃の思い出です。

2010年2月6日土曜日

純愛 (片平なぎさ)


なぎさと来たら片平なぎさ。こんな曲唄ってたの覚えてますか。わたしのカーステレオのチェンジャーに懐かしのCDが入っていて、渋滞するとかけてます。今では彼女も、サスペンスのクイーンになってしまいました。殺人事件に顔を突っ込んで殺されそうになるが、最後に事件を解決する。男だったら船越英一郎、サスペンスの帝王クラスですね。彼女はむかしから大人っぽかったので、今でも年齢を感じさせないくらい若くみえます。でも、昔のジャケットを見ると可愛いですね。けっこうファンでした。

2010年2月5日金曜日

遠い渚 (シャープホークス)


シャープ5はシャープホークスとユニットを組んでいた。当時、ハーフブームは女性ばかりではなかった。男性でも、ハーフ、クォーターは人気があった。バンドでもモデルでも、外国の血が入った顔立ちがもてた時代だ。シャープホークスには言わずと知れた安岡力也氏が存在感をあらわして、芸能界に怖い物なしと、幅をきかしていた。横綱級のすごい奴を抱えていたわりに、その後のヒット曲がなくて、男性誌のモデルになったりして、メンバーもばらばらになった。その安岡氏も、帆立マンとして復活したが、”遠いなぎさ”が彼らの最大の絶頂期だったのだろう。

2010年2月4日木曜日

ビバルディ「四季」より 春 (シャープファイブ)


シャープファイブもシャドウズのコピーを好んでやってましたね。ハイスクールの頃、上野に今で言うライブハウス、<ジャズ喫茶>宮殿と言う所がありました。エレキ仲間に連れられて見に行きましたが、飯田久彦とバンドックス、やシャープファイブの生演奏を見て、指使いなどを勉強したものです。学業はおろそかで、こんな勉強は夢中になって馬鹿でした。一番前の席に行くと前足を蹴るので砂が飛んでくる迫力です、ただ狭いだけかも。リードギターの三根さんは、往年の歌手ディック三根さんの息子さんだそうです。シャープファイブもいい音出してましたね。

2010年2月3日水曜日

さくら さくら (パープルシャドゥズ)


そしてパープルシャドゥズですが、もともとシャドウズのコピーをやっていたので、ヒット曲の合間にもシャドウズが抜けなくて、と言うかリーダーの今井氏はカブレですから、シャドウズから抜けられないのです。となると”小さなスナック”や、歌謡曲風な曲を創っても、演奏、編曲段階でシャドウズが顔を出すのです。日本の琴の音を聞いて、この曲をエレキで弾きたくなるのは、まさにカブレである証拠です。寺内師匠が津軽三味線をやるのは、ジャパンへの挑戦ですが、パープルシャドウズは、クリアーサウンド、いかに奇麗な音を出すかの挑戦でしょう。挑戦が大事なんですね。

2010年2月2日火曜日

春がいっぱい (シャドウズ)


そのシャドウズの名曲、”春がいっぱい”は、いまでも旅番組やドラマの春のシーンではBGMとして使われるくらい春の定番です。シャドウズのテクのひとつに、ピックを持つ手の小指で、ボリュームのつまみをスライドさせて、弾く音を小さくして、後の余韻を大きくする技があります。専門的に言うと、弾く音(アタック)余韻(リリース)、(ディッケイ)なんて言う波形を手動でコントロールして、聞く人に快感をあたえる癒し効果を演出している。いわば、現在の音楽療法みたいに身体に沁み込んで来る。電子楽器が進歩していない時代に、こう言う奏法が出来た天才達でもある。

2010年2月1日月曜日

In The Mood (シャドウズ)


同じインザムードを幻のエレキバンド、シャドウズが演奏するとこうなる。何が幻かというと、こんなに奇麗な音を奏でるバンドが、日本ではあまり受けなかった。ベンチヤ―ズのテケテケのほうがヒットして、ビートを抑えたエレガンスな音楽は、一部マニア意外には浸透しなかった。だから幻なんだけど、奇麗な音の秘密は育ちの良さから来ているようで、見るからにお坊ちゃまバンドのようだ。しかし、日本でもシャドウズ狂いは居ました。その名も、パープルシャドウズ、とか、シャープ5などと言うバンドはコピーしていました。