2010年10月29日金曜日

哀愁のカサブランカ (郷ひろみ)


モンローウォークから郷ひろみさん、と強引(goin)に続きますが、この曲が抜群にうまい知人がいまして、その事を書きます。よく通ったパブスナックのマネージャーで、見た感じは郷さんとは違いますが、彼のほうがこの曲を唄いこなしている気がします。彼は東北から歌手になりたくて状況して、夢破れ現在に至る。と言う経歴ですから上手いのはあたりまえで、彼がステージで唄うとショーを見るようでした。その店が終わり、流れで別の店に行くと、女性客が注目して、我等はとりまきになってしまうくらいです。あの彼、今何してるんだろうな?、そんな思い出の人達と、一度でいいから同窓会みたいに逢いたい気分です。

2010年10月28日木曜日

モンロー・ウォーク (南佳孝)


南つながりで強引にここに来ました。むかしS社の芸能担当記者だった友人から、サンプルレコードをいただき、意見を聞かれた事がある。それが発売前の南佳孝さんのLPで”夏の女優”だったと記憶しているが、間違いだったらごめんなさい。その時の印象はそんなにいいものでは無かったので、あまりいい感想を言わなかったとおもいます。しかし、2、3ヵ月後、あれよあれよというまに別の曲がヒットして、私の先見の無さを露呈してしまいました。それからと言うもの、彼のファンになり、罪滅ぼしをしているのであります。気軽に評論なんかするもんじゃありませんよね、自分のことも知らないのに。

2010年10月27日水曜日

夢一夜 (南こうせつ)


かぐや姫のリーダーは、南こうせつさん、ですが、むかしは高節さんと漢字だったのですが、地方の年寄りに南高節(なんこうぶし)を唄ってくれと言われ、平仮名にしたそうです。嘘のような本当の話なんですが、いい声してますよね。この曲はCMに使用された曲なので、いつものような貧乏臭さはなく、豪華絢爛に仕上がっています。この曲が流れた頃には、私の同棲生活も破綻をきたし、元の実家暮らしに戻っていましたし、気持ちも立ち直って元気も出て来た頃でした。人は失恋したりしても、立ち直れる強さがあるのです、いい思い出にして、あの恋は綺麗な箱にいれて取って置きましょう。いい時代が来るまで。

2010年10月26日火曜日

神田川 (かぐや姫)


そして、その伊勢さんが前に居たグループの”かぐや姫”の大ヒット曲”神田川”です。この曲の中身と良く似た暮らしを、私もしていたことを思い出します。舞台は”高円寺川”ですが、川の上が暗渠で蓋をされて道になっていましたが、その脇にあった長屋の4畳半です。中野駅からそこまで徒歩十五分くらいで、途中にある銭湯で、いつも待たされたのは私でした。女性のほうが長いんですよ普通はね。隣のコインランドリーで洗濯を回収して待つのです。愛の巣は四畳半ですので台所は無く、銭湯の帰りにコロッケ買って帰ります。そんな暮らしでも彼女さえ居れば良かった、居てくれることが望みでした。それも今は遠い昔です。

2010年10月25日月曜日

22才の別れ (風.伊勢正三)


なごり雪の作者で知られる伊勢正三さんは、正に名曲”22才の別れ”を創りました。この頃はカラオケ全盛期でもあり、よく十八番として唄ったのがこの曲でしたね。それに、ギター弾きとしては、この曲のイントロでフォークギターで爪弾かれる旋律は、美味しい所でもあり、スナックなんかでギターの置いてある店では、このイントロを弾くだけで拍手が沸くような、お涙ものの曲なんです。若い頃、誰でも経験したことのある悲しい別離を、誰しもが自分の淡き恋に置き換えて思い出したのが、この曲のヒットした要因でしょうか。

2010年10月22日金曜日

なごり雪 (イルカ)


そして何年たっても変らない風貌で、いまだにフォークギターを携えて、この歌を大切に唄っている姿には感銘します。私が、20代の終わりに、同棲していた彼女と破局した時、街には”なごり雪”なるものが降っていました。歌の文句ではないですが、あの時の感情は似たものがありました。今は彼女にも、その時かかわった友人などに感謝の気持ちでいっぱいです。あんな物語の主演が出来て、そして私の人生に花を添えてくれた出来事に、心から感謝します。結果はどうでも、思い出も無い人生なんて、つまらないですからね。

2010年10月21日木曜日

百万本のバラ (加藤登紀子)


ギターを弾き語る女性アーティストに彼女が居ます。純粋フォークと言うよりも少しシャンソンが混じったイメージですが、彼女の恋愛が学生運動で投獄された、学生運動の指導者との獄中結婚などが話題となったのです。彼女の歌には反戦歌的なものはないのですが、その人生や恋愛などの姿が革命のイメージがあったのでしょう。しかし、この曲は外国の曲を訳詩した曲ですが、百万本は大変な数ですよ。バラが一本一円で計算しても百万です、百円でしたら百倍ですよね、貧乏な絵描きの財産ではどうか。それに、窓から見える場所に、一晩でバラを轢き積めるのは神業です。夢を壊すわけではないが、少し大風呂敷広げすぎですよね。

2010年10月20日水曜日

ドナドナ (ジョーンバエズ)


この歌もジョーンバエズだったのですね。まだ青年の頃、動物が好きでずっと犬を飼っていた私ですが、永年飼っていたコロと言う犬が死にました。その時この歌がヒットしていて、子牛が売られてゆき殺される、なんて歌を聴いたら泣けるのは当然です。いろんな人がカバーしていたのでバエズの曲だった認識がありませんでした。それに内容も薄らいで、”500マイル”と言う歌とごちゃ混ぜになり、子牛が500マイルも遠くに売られていくような錯覚をしていました。記憶と言うのは実に曖昧なものですね。

2010年10月19日火曜日

思い出のグリーングラス (ジョーンバエズ)


この曲は森山良子さんもカバーしている通り、本家の女性フォークシンガーであるジョーンバエズの名曲です。この曲などを唄いながらギターも弾くスタイルは、この人が始まりのような気がします。それまでは映画の中でオードリーヘップバーンが、窓辺で”ムーンリバー”を唄うシーンはありましたが、ステージでギターを弾のは驚きでした。その後日本でもギターの弾き語りでデビューした女性が幾人かいましたが、それでもギターの女性は少なく、キーボードのほうが多かったようです。ギターは男が、抱きしめたくなるような形をしてますからね。

2010年10月18日月曜日

この広い野原いっぱい (森山良子)


森山良子さんといえば、この曲でブレークしたのでした。その当時、フォークブームであってもアコースティックの硬いミドル弦は、女性の力では押さえきれず、弾き語りなどいませんでしたが、彼女はそのフォークギターを弾きながら唄ったので、素性を確かめると、あのグループサウンズで活躍していたスパイダースの、ムッシュかまやつ氏の従妹だったのです。彼の父親もビックな歌手でしたから、音楽には恵まれた環境だったのですね。女性のフォークシンガーでは、日本の先駆者でしょうか。

2010年10月15日金曜日

今日の日はさようなら (森山良子)

その美ヶ原のキャンプファイヤーで、最後に大合唱したのは”今日の日はさようなら”でした。この高原ホテルのオーナーは朝には自然教室なる早朝散歩や、夜はキャンプファイヤーとか、大広間でスライドショーなどを開催して、季節ごとに楽しませてくれるのです。ちなみにオーナーは小沢さんといい、その奥様は写真家でもあると言う多才な一家なのです。夏の日の高原で、満天の星の下、♪いつまでも絶えることなく友達で居よお♪と言う大合唱で夜が更ける、なんと思いで深い一日でしょうか。

2010年10月14日木曜日

ジェンカ (坂本九)


大勢で揃って曲にあわせると言えばジェンカもそうでした。元歌は”レッツ.キス”と言うのだが、列になって進んでゆくダンスの名前がジェンカらしいのです。私が兄弟の家族達と美ヶ原に一泊した時のことです。ホテルの庭でキャンプファイヤーが行われ、そこでジェンカを、半ば強制的にやらされたのですが、はじめは知らない人同士で照れていたのですが、続けて居る内になごんで、曲を3回も繰返していました。夏の高原で、真夏の夜の夢でしょうか。

2010年10月13日水曜日

マイム・マイム (イスラエル民謡)


フォークダンスのようなもので、これも思い出のある曲でしたよね。マイム,マイムと言いながら大きな輪になって回るやつです。キャンプなんかでやるといいのですが、残念ながら運動会くらいしか記憶がありません。マイム,ベッサッサと言う所で輪っかが小さくなるのですが、すぐにまた広がって元に戻るところで、みんなで押し競饅頭状態になって先生に怒られたことがありました。他愛なき子供時代の悪戯が、誰の合図も無いのに一せいに行われると言う子供の心理、そんな感情が、今は何処に消えたのでしょか。

2010年10月12日火曜日

オクラホマ.ミキサー (フォークダンス)


ダンスパーティーといえば此れもダンスパーティかもしれませんね。低学年か中学の頃、この時間の憂鬱だったことを今でも忘れません。女子と手を繋げるなんて、今思えばこんなチャンスはありません。現在の年齢で勝手に手を握ろう物ならば、この人変なんです、と言って変なおじさんにされてしまいます。中学校で女子が異性と知った頃、恥ずかしくて手を握るなんて出来なくて、でも先生には注意されるしで、本当に憂鬱でした。今の私で体だけ当時のままだったら、きっと鼻の下を長くして、チューリップ顔してるでしょうね。変な妄想はこれ位にしても、当時はそれくらい純情だったって言うことですかね。

2010年10月8日金曜日

アンチェイン・マイハート (Ray Charles Tribute)


アンチェインで思い出しました。高校生の頃、不良グループのあいだでパー券というのが横行していました。不良の資金稼ぎで、オバケと言って実際にはパーティもやらずに、パー券だけを売りつけられる偽物も多かった中で、本当のパーティもあったのです。私が覚えているのは、秋葉原の一角のビルの2Fだったかで、エレキバンドが2組入ったダンスパーティに行った思い出です。この時ばかりはVANジャケットからJUNで固め、女子高生はミニドレスで、ジャパニーズ,グラフィティを繰り広げた、その思い出の曲がこれだったのです。

2010年10月7日木曜日

アンチェンド・メロディー (ライチャス・ブラザーズ)


この曲もかなり古い曲であるが、映画”ゴースト”で挿入歌として使われた為にリバイバルヒットしたので、再び脚光を浴びる事となった。映画を観た人も多いと思うが、殺された恋人が残された彼女を、ゴーストになって守る姿に感動したでしょう。そして、黒人の女性霊媒師の体を使って自分が側に居る事を知らせる、あの感動は鳥肌が立つほどでした。愛と言うたった一文字で表す感情が、こんな奇跡を生むのですから愛は素晴らしい。覚めた眼で見れば、映画の中の劇だと言ってしまえばそれまでですが、この歌が真実だと訴えているような気がします。

2010年10月6日水曜日

煙が眼にしみる (プラターズ)


当時の音の良くないラジオでも、この人達の歌声は素晴らしかった。代表曲は”オンリーユー”ですが、私的にはこの唄が好きだった。恐らく現代では環境問題になりそうなタイトルですが。その当時の大人アイテムのひとつ、煙草とお酒のある風景で、恋人同士がチークダンスの時に、嬉しくて涙を流す場面で、照れくさいので煙草の煙が眼にしみる、と言うシーンだろうと思う。なんとホノボノとした瞬間だろう、私にはとっくの昔に憶えた感覚ですが、恋をするという、若いときには何でもない事が、今ではとってもいとおしいのです。

2010年10月5日火曜日

あなたの肩に頬うめて (ポールアンカ)


音の悪い昔のラジオがあの頃の思い出に誘ってくれるのです。今では中国製のラジオだって、あんなダサイ音は出しませんが、そんな音でもポールアンカは人気者だったのです。とくにこの曲はポケットラジオから聞こえるような雰囲気で、映画”アメリカン.グラフィティー”を観た人なら、あの一場面を思い出すでしょう。ガソリンを垂れ流しているような当時のアメ車に乗る若者の愛した、カーラジオから流れるこの曲を聴くと、なにか身震いを憶えるのは私だけでしょうか。1960年を過ごした人間なら、同じ感覚を憶えるでしょう。日本では、その頃が昭和のど真ん中だったのです、カムバック昭和です。

2010年10月4日月曜日

恋の片道切符 (二ール,セダカ)


恋の〇〇〇と言って真っ先に頭に浮ぶのは、わたしの場合は”恋の片道切符”なのだ。1960年代のアメリカンポップスを代表するような曲で、アメリカの青春ソングが日本にどんどん侵入してきた60年は、トランジスタラジオの普及と同年代であった。真空管のラジオから、電池式のポケットラジオの普及で、歩きながらの音楽鑑賞が可能になったのが昭和だった。余談ではあるがゲルマニュームラジオというラジオは、電池もいらなかった。音の悪いのは、技術的に未熟だったのか、そんな時代である。今となっては、音の悪いのが当時の味と言うことで、真空管や、ポケットラジオの音は、1960年代を思い出す。

2010年10月1日金曜日

恋の季節 (ピンキーとキラーズ )


この曲は、ワンフレーズ’夜明けのコーヒー’というのを流行らせた曲でした。わたし達、新宿酔っ払い集団が、バンドを始めた最初の練習曲もこの曲でした。音合わせの段階でふざけて弾いたのがピンキラでした。それと、青山で深夜にナンパした女の娘が、ピンキラの解散後、メンバーのパンチョ加賀美さんと、ユニットを組んだ事がありました。その名も、パンチョ加賀美とグッピーズ、という名前だったかな。とにかく、この曲には思い出が幾つもあって、この曲を聴くたびに、何となく若き日の幻影がちらつくのです。