2010年5月31日月曜日

卒業 (サイモンとガーファンクル)


はじめて買ったビデオデッキが届いた日に、洋画劇場で放映されたのがこの映画だった。当時八万円もする機械は、録画再生ボタンが押し込み式で、リモコンも無く、ボディは木製だった。ローンを組んで10回払い、思い切った買い物でした。映画のストーリーは有名だから、知らない人は少ないでしょう。主演のダスティンホフマンの走りが話題になり、のちに”マラソンマン”の主役にも抜擢された。何と言ってもラストの、印象的な略奪愛が、大塚博堂の”ダスティンホフマンになれなかったよ”なんて曲まで出現している。究極の出来そうで出来ない愛の形を、映像化した作品だ。

2010年5月30日日曜日

卒業 (尾崎豊)


尾崎の時代は私の青春よりあとだが、尾崎が亡くなった時の騒ぎは今でも思い出す。当時池袋のサンシャイン近くの路地に、若者が腫れ上がった頭で倒れていた。若者はすでに死亡していたが、それが尾崎豊氏と判明した。新聞が書きたて、事故説、殺人説。病気説が飛び交った。葬儀には沢山の若者が集い、泣く者や叫ぶ者が続出したニュースが流された。それまでは、エージギャップがあり、存在すら知らなかった歌手が、こんなにも若者に支持されていたのかと驚いた事を憶えている。今でもサンシャインの外階段に彼の碑があるのを知っていますか。

2010年5月29日土曜日

卒業写真 (松任谷由実)


このころ卒業したもの、それは横浜通いだ。何故か知らないけど横浜、湘南、の憧れはしばらくつずいた。元町商店街が、まだ木造で道も狭かった頃、フェラーリに乗った金持ちが、喫茶に入ると集まってくるのが横浜銀蝿と言う若者だ。持ち主が出てくると、ぱぁ~っと散り、居なくなるとまた集まる。ウンコにたかる銀蝿そっくりだった。私も同じようなものだけど、東京から首都高経由でたかってた。”卒業写真”がはやった頃、意味も無く突然行かなくなった。どうしてだか憶えていないが、おそらく卒業の時期が来たのだろうとおもう。

2010年5月28日金曜日

青春時代 (森田公一とトップギャラン)


♪卒業までの半年で、答えを出すと言うけれど。ふたりが暮らした歳月を、何で測ればいいのだろう♪。このフレーズが時折あたまを過ぎるのは何故だろう。わたしの人生、答えを出した事が一度でもあっただろうか。何時も気が付いたら別の場所にいたような気がして、答えを出さずに、曖昧に生きてきたような気がする。区切りと言うか、此処から此処までみたいな事が無く、ただ、時の流れに乗っかってきたようだ。いろんな経験をしてきたが、わたしは未だに専門分野を持たない。何かが起きて、TVのニュースに出た時、何と紹介されるのだろう?。

2010年5月27日木曜日

蛍の光  (唱歌)


蛍の光は夏で窓の雪は冬。何を意味するのか知らずに卒業した。中国のむかし話で、ふたりの貧しい若者が、あるものは蛍の光で勉強して、あるものは雪明りで勉学に励み、二人とも出世をした。この話をもとに作詩されたのが”蛍の光”だそうである。明治のはじめ、スコットランドの民謡に日本語の歌詞をつけたらしい。小学校ではこの曲を唄ったような気がするが定かではない。しかし、この曲が流れると、何かが終るような、条件反射でシックな気分になるのは不思議だ。現代はこんな貧乏ったらしい曲は使われないが、まさに昭和とともに遠くなり行く。

2010年5月26日水曜日

あおげば尊し (唱歌)

このブログのはじめに書いた、人生の節目に聞いた想い出の歌は鮮やかに蘇える、と言う言葉が、そのまま当てはまる曲がこの曲のような気がする。卒業の季節はもう過ぎてしまつたが、かえって少し過ぎたほうが実感が湧く。五月病も治まる頃、冷静に卒業前と後の比較が出来るというものだ。私が最近卒業したものといえば、ハローワークから入学した職業訓練の学級だ。渋谷外国語学院で行われたIT関連のクラスで、短い期間だが、老若男女がともに学び、卒業を迎えた。学級委員のわたしは、最後に代表挨拶をスピーチして、学生時代の劣等性がクラス委員になれたのでした。

2010年5月25日火曜日

贈る言葉 海援隊 (武田鉄矢)


この曲は、海援隊の頃の武田さんが作った曲で、当時の学園ドラマで使われた挿入曲だったが、彼も想像しなかった事態がおこったのだ。それまで学校の卒業式に唄われる曲は、”蛍の光”か”仰げば尊し”が定番だったのが、いつの頃から、この”贈る言葉”が正式な卒業式に唄われるようになったのだ。時代は変わり、時代は巡り、私も人生のひとつの卒業を迎えた。ここで、卒業にまつわる曲を並べて見ようと思う。いろんな卒業があるが、思い出に残ることばかりで、それにかかわる音楽もいっぱい記憶の片隅に眠っている。すこし、揺り起こしてみようと思う。

2010年5月24日月曜日

刑事物語、武田鉄也 (吉田拓郎)


蟷螂拳の出てくるドラマは”刑事物語”です。金八先生のイメージが強かった武田さんだったが、にわかに挌闘家の印象が強くなった作品でした。最近でも定年間近の刑事役を演じたりして、味わいのある俳優として大成しましたが、忘れてはいけないのは、歌手である武田さんです。この番組での主題歌は吉田拓郎さんですが。それはそれでよかったのですが、なぜ彼が唄わなかったのか?、という疑問です。私が製作者だったら、分析するに、彼の個性が濃すぎるので主題歌をクライマックスでかぶせたら、濃すぎてしつこくなるので、サッパリ系の卓郎さんに決まったのではと、理解しているのです。

2010年5月23日日曜日

酔拳Ⅱ (ジャッキーチェン)


音楽ではないが映画も思い出に残る一場面になる。この酔拳はOO拳ブームの引き金となった作品で、色々な拳法があって、動物関連の拳法が多かった。中でも、この酔拳や蟷螂拳(カマキリ)の拳法が特異な存在であった。ジャッキーは、いろんな拳法をこなしたが、かなりの努力家で、何をやってもきまっていた。日本ではその頃、歌手の武田鉄也さんが、蟷螂拳を取得してドラマなどで活躍していました。ヌンチャクの変わりに、木製のハンガー、(衣文賭け)を武器にして、相手を倒すシーンが話題になり、木製ハンガーが馬鹿売れした事がありました。

2010年5月22日土曜日

ミスターBoo (マイケル.ホイ)


香港映画の全盛期がジャッキーチェンの売り出しの頃だった。その時コミカル映画のヒーローだった、ホイ三兄弟の”ミスターB00”が大ヒットしていたのだ。特に長男のマイケル.ホイは爆笑で、最高だった。私がバンドをやっていた仲間で、映画配給の東和に居たT君は、マイケルと呼ばれていた。この映画は東和の配給だったので宣伝も兼ねていたのです。そのT君は、ジャッキーチェンが来日の折、彼がホテルで使った歯ブラシを大事に飾っていた変な奴でした。ミスターBooは彼の事を思い出します。

2010年5月21日金曜日

燃えよデブゴン (サモハンキンポー)


燃えよ、と言えばドラゴン以外にデブゴンもあった。最近、烏龍茶のCMに懐かしい顔が出ている。ドラゴンの映画で最初のシーンでブルースリーと対戦した太っちょ俳優は、その後パロディ版”燃えよデブゴン”の主役、サモハンキンポーだ。CMのなかでは若造りしているが、私たちと同年代だからそこそこの歳だろう。結局これもブルースリーの遺産だろうと思われるが、パロディでも人気が出れば後は自己責任。もっとインパクトがあればサモハンキンポーも一大ブームを起こせたものを、いかにスターへの道が険しいかわかる。いま、CMを見て彼だと分る人が何人いるだろう。

2010年5月20日木曜日

燃えよドラゴン (ブルース.リー)


ドラゴンに火をつけて燃やした、ブームを作った作品がこの”燃えよドラゴン”だ。これより前に香港では人気があったようだが、ハリウッド映画になってから大ブレークして世界中に知れ渡ったのだ。空手は昔からあったが、カンフーという空手、合気道、柔道を合わせたような格闘技に、みんな夢中になりました。二本の棒を紐で結んだヌンチャクという武器は、子供の玩具にまでなり、大人までにも飛ぶように売れた時期がありました。私も護身用に買いましたが、練習が続かず、今どこにいったのでしょうか。カンフーブームが懐かしい。

2010年5月19日水曜日

ゴールドフィンガー (シャーリーバッシー)


007シリーズで最高傑作だったのが”ゴールドフィンガー”だった。007の映画の中で日本で撮影された作品もあるが、その中で使用された乗り物で、US90という三輪のレジャーバイクがある。この三輪車は、私がH社でテストドライバーをしていた当時、まさにテストをしていた車なので思い出深い映画なのだ。同系で”電撃フリント”や”ナポレオンソロ”と言う映画もヒットしたが007を超える作品はないだろう。唯一、人気的には、前にも書いたブルースリーのシリーズくらいだろう・

2010年5月18日火曜日

ロシアより愛をこめて (マットモンロー)

ジェームスボンドは不滅だ、と大袈裟ではないくらいの時代があった。不死身の代表格で、モテ男ナンバーワンのかっこいい男である。この映画は現在も代替わりして新しいシリーズが造られているが、私達の年代ではショーンコネリー以外に考えられない。圧等的な存在感は、あのブルースリーの後任が居ないのと同じである。私がはじめて見た作品が”ロシアより愛をこめて”だった。しかし、当時はロシアではなくソビエトだったと思うが、当時のソビエトは無茶苦茶で、とても歌になんかならないのでロシアにしたのだろう。

2010年5月17日月曜日

昭和ブルース (天地茂)


昭和の影を唄った”昭和ブルース”。阿吽倶流の愛した昭和と言う時代を象徴する、背景やファッションが蘇えるドラマ、非常のライセンス。元になった◎◎のライセンスと言う言葉は、007は殺しの番号、とか殺しのライセンスと言うフレーズが流行ったのが元にあった。ショーンコネリーの主演作で、秘密諜報員の活躍する物語だから、刑事に変えてストーリーを展開したものが、この非常のライセンスの発想元だと思われる。パクリの様だがそうではなくて、ヒントとして使っただけで、立派な日本のドラマに仕上がっている。

2010年5月16日日曜日

非情の街 (天地茂)


初期の”非常のライセンス”にはこんな人が出演していたのです。残念なことに、突然の蜘蛛膜下出血で亡くなってしまい、世間に衝撃を与えた事がありました。彼の代表作で、”嵐の中でさようなら”と言う番組は傑作で、今再放送したら相当のヒットだと思います。この頃はテーマ曲も音楽だけだったようですが、天地茂さんもレコードは出していました。競作だったと思いますが”昭和ブルース”という曲は何ともいえない、いい味出していましたね。本当にいい役者を亡くしたものです、惜しい俳優でした。

2010年5月15日土曜日

非情のライセンス  (野際陽子)


その”非常のライセンス”に競演していたのが、千葉真一さんの元の奥様、野際陽子さんでした。むかし、カレーのコマーシャルでよく見ました、うまい!!、です。皮肉にも彼女の歌のほうが有名になってしまいましたが、その後、離婚してしまい、今は他人の関係のようです。この番組のような捜査物は、当時から人気があって今でも名を変え品を買え続いているようです。私も青年の頃はそういうドラマを欠かさず見たものです。テレビが世に出てきて、テレビの無い暮らしが考えられない現代まで、テレビにはお世話になりました。

2010年5月14日金曜日

非情のライセンス (千葉真一)

http://www.youtube.com/watch?v=rVaJca2RSSk
千葉真一さんといえば、こんなドラマを覚えていますか。結構ロングラン番組で、この番組のテーマ曲を彼が唄っていたのを思い出しました。歌ではあまり人気は出ませんでしたが、彼が設立したJAC(ジャパン、アクション、クラブ)では、スタントマンを要請して、数々の映画にタレントを送り出し、真田ヒロユキさんや志保美エツコさんなども、JACの出身でした。そして、国際俳優としてハリウッド映画などにも出演して大活躍でした。私たちの年代では、ブルースリーやジャッキーチェンのような存在でした。

2010年5月13日木曜日

黄金バット (千葉真一)


ゴールデンで忘れられないのは、ゴールデンバット。知ってる人は知っている昔タバコのヒーローではなく、怪傑ヒーローである。バット(しかし)ではない、蝙蝠コウモリである。蝙蝠なのに顔は頭蓋骨ドクロなのだ。路地に響く太鼓の音に、おこずかいを握り締め、ソース煎餅や杏の水飴をこねまわし、夢中になって見ていた紙芝居、あのヒーローがテレビになったのだ。千葉真一さんを始めて見た番組だった。体育会系の強靭な姿と、他のヒーローものとは違った、気味の悪いドクロ仮面が英雄と言う、変な番組に無中になった頃が懐かしい。

2010年5月12日水曜日

チョット・マッテ・クダサイ (ゴールデン・ハーフ)


考えてみたら、何年ぐらい前だったんでしょうか。いまこの娘達はどうしてるんでしょうか、もう、おばあちゃんかもしれないですね。勿論、美貌の人達ですから、いまでも綺麗でしょうが、孫が居てもおかしくないですよね。メンバーのなかで小さなエバが、口癖だった、チョットマッテクダサイ、を曲にしてしまったユニークな作品です。けっこう日本語ペラペラで、会社に言われて英語なまりで喋ってる風が、現在の外タレといっしょで、当時も英語の出来ない外国人、いましたよね。ゴールデンハーフといってもハーフに見えない娘や、エバのように外人に見えたりで、どちらでもいいと思える今日この頃です。

2010年5月11日火曜日

太陽のかなた (ゴールデンハーフ)


ゴールデンタイムの黄門さまからゴールデンハーフとは、ちょっと無理があるかな。まあ、ゴールデン繋がりということで。これだけスタイルのいい女子が四人も居て、受けない訳が無い。それに、当時流行っていたバラエティー番組で、コントなんかやってお笑いまで出来るタレントが日本人ではなく半分外国人だって、そりゃーモー最高でした。中でもいちばん小さなエバは、勝鬨(かちどき)二丁目にすんでいたらしく、それをコントにしていた。一番白人らしかったマリアは女優として、サスペンスなんかにも出演して頑張っていた、昭和の一時期。あんな時代がまた来ないかな、懐かしくて涙がでる。

2010年5月10日月曜日

水戸黄門 (あおい輝彦&伊吹五郎)


なにしろゴールデンタイムの”水戸黄門”の助角役はあたり役ですから。真家さんも時代劇に出たりドッキリカメラなんかに出演したり、してはいたのですが、レギュラーの番組が無く、道場で殺陣の練習をしたり作曲なんかもやっていましたが、仕事は少なかった。私なんかとあそんでるくらいですから。いっぽう、あおい輝彦さんは順風満帆で、いつも羨ましがっていました。まさに♪人生楽ありゃ苦もあるさ♪てなもんで、いいときもあれば悪い時が続くこともある。真家さんは悪い人ではないが理屈っぽいところがあり、他の人も私も、段々と距離をおくようになって離れて行ったのです。その後、独りのとき心筋梗塞で発見がおくれ亡くなりました。まだ若かったのに残念です。

2010年5月9日日曜日

あなただけを (あおい輝彦)


あおい輝彦さんのレコードがヒットしていた頃は、私はよく飲み歩いていました。よく肝臓がやられなかったものです。この頃スポーツ誌の文化部にいた親友のI君から、ある人を紹介された。初代ジャニーズのリーダーだった真家ひろみさんである。酒の勢いで意気投合して自宅へ遊びに行くくらいの友人になった。奥様の実家は有名な書家で、奥様は宝塚出身、静ちゃんという女の子が産れたばかりでした。彼らのマンションにはいろんな有名人が来ていたので、私も同席しました。あおい輝彦さんは人気の最中で会えませんでした。本当にあの頃はよく飲んだ、感心します。

2010年5月8日土曜日

センチメンタルカーニバル(あおい輝彦)


ほんとうにいい俳優さんになられましたよね。ジャニーズ時代はアイドルで、戦記物の映画では迫真の演技に泣かされ、ソロのレコードもヒットに恵まれ、ジャニーズのリーダー、真家ひろみさんなんか、いつも羨ましいと言っていました。他のメンバーで飯野おさみさんとは真家さんの家でお会いした事がありました。丁度奥様だった雪村いずみさんもご一緒で、マージャンのメンバーに入れていただき、しばし遊んだ想い出があります。機会があれば、あおい輝彦さんにも逢わせてくれると真家さんは言っていましたが、とにかく大スターに暇なしで実現しませんでした。

2010年5月7日金曜日

防人の詩 (さだまさし)


”二百三高地”の製作中に東映のスタッフが、新宿三丁目にあったスナックに良く来ていた。この店は女優の妹がやっていた店なので、映画関係者の客が多かった。私の友人が映画の取材をしていた記者だった関係で、私もこの店によく通った頃だった。店の中には”二百三高地”のポスターが貼られ、話題もこの映画の話がおおかった。実際に映画を観たのは、上野にあるシアターだったが、招待券で観た様な記憶がある。登場人物の中に同姓が居たので覚えている。主役はなんとジャニーズのあおい輝彦さんでした。この店の女優さんとも帰りのタクシーでご一緒した事もありました。横山りえさんでしたか?。

2010年5月6日木曜日

契り (五木ひろし)


戦争映画の大作では必ずヒットする曲が多い。それは、感情移入の極限のシーンで流れる珠玉の感動作品だからである。過去にも掲載した曲に”群青”があったが、これは戦艦大和の映画であったが、この”契り”は大日本帝国軍を題材にした映画である。そのほかにも有名な曲で映画、二百三高地の挿入歌で”防人の詩”と言う曲があった。いずれにしても、私は戦争の映画はあまり好きではない。それでも話題作は観てしまう。人が死んだり、殺しあう描写は好きになれないと言うことである。また曲を聞くと思い出してしまう。

2010年5月5日水曜日

よこはまたそがれ (五木ひろし)


五木ひろしさんがブレークしたのはこの曲でした。その前からデビューしていたので新人ではありませんが、厳密にいわなくても五木ひろしさんはこの時に誕生したのです。この歌の歌詞は、山口洋子先生が、はじめて楽曲として世に送った作品だと思います。作詞の勉強をしていた私は衝撃をうけた作品でもあります。接続詞をいっさい使わず、イメージの強い単語を並べただけで歌を作る、まるでコラージュのように、切ったものを並べただけで、聞く人に預けてしまう。こんな無責任でいいのか?。でも、ヒットした、それも大ヒットだ。歌は不思議だ其の一言に尽きる。

2010年5月4日火曜日

居酒屋 (五木ひろし&木の実ナナ)


木の実ナナさんのこんな歌を思い出した、デュエットの曲で”居酒屋”だ。お相手は福井の好男子、五木ひろしさんなのだが、五木さんの芸名は作家の五木寛之さんからもらったそうである。五木さんがまだ松山まさると言う芸名の時、住んでいたアパートの大家さんが私の親戚のおばさんでした。みんなお千賀さんといってお付き合いをしていました。五木さんも覚えている事でしょう。そして、木の実さんは多才な方で、ミュージカルや時代劇までこなされて、本当に魅力的な女性です。この”居酒屋”はカラオケデュオの定番になりました。

2010年5月3日月曜日

うぬぼれワルツ (木の実ナナ)


ワンちゃんのチンに似てると言えばこの人、木の実ナナさんも似てますね。彼女の歌で、西島三重子さんが提供している”うぬぼれワルツ”という曲がありましたが、よく聴いたものでした。木の実ナナさんは多才で、どんな曲もこなしますが、なかでもこの曲は絶品です。この曲が流れていた頃、何をやっても上手くいかないわたしは、この曲に慰められたのを思い出します。ワルツのクィーンである西島三重子さんが歌うと、ある意味同じような曲に聞こえてしまいますが、木の実ナナさんの歌唱のほうが新鮮に聞こえたのは、私だけでしょうか。チン顔の人は才能があふれているのでしょうか。どうも失礼しました。

2010年5月2日日曜日

愚図 (研ナオコ)


その研さんの曲の中で、私がいちばん好きだったのがこの曲でした。この歌の主人公は、必ずしも女性ではなく、男でもこんな調子で煮え切らない奴っていますよね。若い頃のわたしがそうでした、今ならもうすこしうまく立ち回れたものを、なぜか遠慮して後ろにまわったりして損をしてきました。♪愚図なおばかさん♪は自分で自分に言っていた言葉です。もしあの時、とか、こうしたらこう出来たら、今で言うタラレバですね。だから今は、結構衝動買いしたり、前に出て発言したりしています。後になって後悔するならやって駄目だった方が諦めが早い。いつまでも引きずらなくてすむしね。だから思い出ばっかり増えるんです。あたって砕けておけば、その時で終っていたものを。燃えカス残して生きている現在です。

2010年5月1日土曜日

かもめはかもめ (研ナオコ)


◎”夏をあきらめて”はこの研ナオコさんも唄っていましたね。まあ、こんな事を言ったら失礼なんですが、彼女はワンちゃんのチンに良く似ていて、笑うと鼻の穴が丸見えなんですね。愛嬌と言えばそうなんですが、彼女もそれはもう割り切って、それを売りにしてしまいました。しかし、歌唱力は大したもので、この歌なんかよくきいたものです。それも、私は結婚しませんでしたから、替え歌にして♪やもめはやもめ♪なんて唄ってました。彼女のでてくるバラエティー番組を見ていると、よくやるのが腰の曲がった婆さん役で、伊豆の熱川訛りで面白可笑しく演じています。彼女は熱川出身なんですね、だから言葉も胴に言ってる。なかなかの才女です。