2009年9月30日水曜日

学生時代 (ペギー葉山)


もちろん、この曲がヒットした当時には、自分はまだガキで、漫画ばかり見てた頃でした。高校くらいの時に聞いたのだと思いますが、清い歌だと感じます。クリスチャン系の女子学園。聞いただけで修道院を思わせるような清純さ純潔さ、(死語でしょうか)そのものが伝わってくる。わたしは真逆で、男子校。教室のあちこち穴だらけで、ノートとインクの匂いなんかぜんぜんしない。清い死を夢見るどころか、どうやってイジメグループの標的にならないかの日々だった。今思えば、学生時代にもっと勉強すればよかった。(笑)

色彩のブルース (エゴラッピング)


日本人の為の、日本人好みのブルース。まさに色々な要素が混ざりあった色彩のブルース。スネアをブラシスティックで擦り、スウィングを刻む。ハーレムのようなレンガの街を想像させるテナーサックスの嘆き。英語なまりのアンニュイなボーカル。...自分は若輩の頃、横浜のピットインで、ブラック珈琲をすすりながら、分ったような顔をしてBBキングなんか聞いてた。若さから来る見栄で、何にも分っちゃいなかった。いま、この歳で分る事は、この曲はカビ臭く無いって事くらいかな。

2009年9月29日火曜日

碧空 (アルフレッド・ハウゼ) 


映画、ヤコペッティ監督の世界残酷物語の中に、青い海底をサメが泳いでいるシーンがあった。その時のBGMがこの曲だった。おだやかな旋律の後、次々と波が押し寄せるような旋律に、戦慄が走った。鳥肌の立つ思いで聞いていた。映画雑誌で”碧空”だと知ったが読めなかった。レコード店で、ぺきぞら、だとか、へきくう、と言っても首をかしげているばかり。文字を書いて、それが、あおぞら、だと解った。若き日の無知で恥ずかしいエピソードである。

バニシングポイント (シネマ)


これは、音楽ではありません。今でも解からないのは、その理由です。見た方は知ってますよねぇ。あのコワルスキーは何故、暴走したのか。何故車止めのブルドーザーに突っ込んで行ったのか。解かる様で、本当は今も解からない。この世を儚んでおさらばしたのか、やりすぎて引っ込みが着かなくなったのか。真実を知っていたのは、あのDJのスーパーソウルなのか。”消滅点”というこのタイトルも、まんまだけど理解に苦しむ。警官だった過去の回想シーンの謎。あれから何年たったのか。今も思い出すラストシーン。

2009年9月28日月曜日

青い瞳のステラ、1962年 夏 (柳ジョージ)


幼い頃の記憶で、米兵と遊んだ記憶がある。幼稚園の裏が進駐軍の司令部で、ハーシーズチョコを土産にサンダーバードの角帽をかぶった白人がよく遊びに来ていた。国の家族を思い出していたんでしょうかねぇ。一年に一度キャンプの開放日があって、ブリキのバケツにいっぱいレモネードを作って歓迎してくれた。この地区は返還されたけど、まだ、同じ経験をしてる子供達が居るってことは、本当の平和ではないんですね。ちなみに、阿吽倶流は柳ジョージに似ていると言われてました。

落陽 (吉田拓郎)


車で半月ほど無宿旅をして、北海道の大地を満喫してきた。好天もあり、また荒天もあり。そして最終日の苫小牧で、おおきなザックを背負った二十歳前の青年が、私の行き先を尋ねてきた。ヒッチハイクで、旅をするというのである。残念ながら私は帰郷すると伝えたら、爽やかな笑顔で頭をさげて、別の人のところに行った。私が今まで出来なかった事を、あの歳でやろうとしている。その時、この曲が頭の中に流れてきた。

2009年9月27日日曜日

シクラメンのかほり (小椋佳)


転職の合間、バー(酒場)でアルバイトをした事がありました。仕事名で好きな、小椋圭さんの名前を使わせて頂きました。アルバムはほとんど全部聞きました。小椋さんは北原白秋が好きだと言うので、私も、集英社の日本文学全集、白秋、光太郎、編を読んでみました。白秋の編が終り、高村光太郎の詩を読み始めたら、しくらあめんのかほり、という言葉が出て来たのでびっくりしました。もしや、これが発想の原点では?。自分が勝手に思ってるだけですが。

千登勢橋 (西島三重子)


西島三重子といえば”池上線”でしょう、ですよねぇ。でも、私の、実際のデート地域といったら、千歳橋周辺が多く、池上あたりには実感がない。学習院とか、カテドラル大聖堂、鬼子母神とか行きました。これは、地名ソングの宿命でしょうがないです。切ないワルツを作らせたら最高ですね。ミス(当時)シュトラウスですから。顔も可愛いし、その頃の彼女に似てたし、いい曲でした。

2009年9月26日土曜日

別涙、わかれ(因幡晃)

夜、知り合いに頼まれて、弾き語りなんかやった事があります。スナックの隅にアンプとギター程度の設備で始めた、お遊びみたいなものでした。カラオケもあったのですが、なぜか、流しのようなスタイルが好評で、深夜のホステスさんやラーメン屋のおやじさんなんかが常連でした。因幡晃が流行っていた頃。この曲をよくリクエストしたホステスさん、どうしたかなぁ。

たそがれマイラブ(大橋純子)


かなりふるいテレビドラマで、森鴎外の”舞姫”をやった。主題挿入歌がこの曲だった。シーンと歌曲がこれほどピタリとマッチしたドラマはなかなか観られない。外国から来た恋人に、軍医である主人公が、別れを切り出す瞬間、珈琲カップが床に落ちて砕け散る。軍医は扉を開けて外に歩き去る。彼女は、見知らぬ他国で身動きさえ出来ないショックを受ける。残酷なシーンで、この曲がながれる。この曲を聞くと、かならず、その場面が蘇えってくる。

2009年9月25日金曜日

グッバイマイラブ(岡崎広志)


グッバイマイラブといえばアンルイスと言われるくらい有名だけど、アルトサックスのジャズ奏者、岡崎広志のこの曲は絶品だ。古いカセットテープしかソースが見つからない。youtubeでも無いので、仕方なく、音質の悪いまま私がUPした。カラオケで有る事は有るが、あの、せつなく掻き毟る、アルトサックスの間奏は、聞くものの心臓を鷲掴みして、心をカラッポにしてくれる。曲が終わった時の空疎感といったらもう、癖になりそうなくらいです。自分が別人になった感じ。聞けば解かります。

清怨夜曲 (あがた森魚)


この流れで、突然大正ロマンって?。本当に音楽に節操なしですみません。この曲にも、個人的物語があります。本命の彼女と同棲に入る前に、私に好意を寄せてくれていたJ子さま、ごめんなさい。”乙女の儚夢 ”と言うレコードを借りて、内容の意味も考えず、本命に走り、結局破綻してしまいました。あがた森魚の歌詞が、私への警告であった事、その後に分かりました。賢明なあなたとだったら、と後悔はしました。すべてが過ぎし日の夢です。Youtubeの作品をお借りします。綺麗な作品です。

2009年9月24日木曜日

ホテル,カリフォルニア(イーグルス)


これは、大大ヒットした曲だが、当時こんな事があった。トワイライトゾーンと言う、オカルト記事などを載せた雑誌がある。その頃、タロットカードに興味があって、その雑誌を買ったのだが、この,ホテルカリフォルニアのレコード(針を乗せるやつ)を逆回転すると、悪魔サタンを祝福する言葉になっていると書いていた。まだ試したことは無いのだが、その本に、別の記事で、座禅姿で空中を飛び跳ねる人が載っていた。それは、オーム心理教設立まえの、麻原教祖だったのを覚えている。あんな事件を起すとは夢にも,,,。

初恋の人(小川知子)


四輪免許を取り立ての頃、この事件があった。福澤諭吉の曾孫の幸雄氏が、静岡、袋井のヤマハテストコースにて死亡。歌手の小川知子と噂の渦中の出来事であった。その時、夕暮れのテストコースを疾走する、トヨタ7の映像が脳裏に焼き付いて離れなかった。私は、何かに取り憑かれたように、A級ライセンスを取りに行ったり、転職もして、○○自動車工業のテストドライバーになってしまった。目的の為に、何であんなに夢中になれたのか、今でも不思議だ。夕暮れのテストコースをたった一人で疾走したが、私は今でも生きている。

甘い生活(野口五郎)


20代後半、この曲と同じ時空を過ごした事がある。古い四畳半のアパートに、ママゴトみたいな生活。本名ではなく、ケイとリリー、と呼び合い、この狭い空間だけが世界で、あとはなにも見えない、いや、見ようともしなかった。たった一年余りで現実につぶされて、壊れ去ったふたり。ボロボロになり、一人になって、なぜか、ホッとした感情があったことも事実だ。愛は刃物の様に思えた若い日。もう、戻らない夏の日の恋。

2009年9月23日水曜日

さすらいのギター(小山ルミ)


阿吽倶流が茶居留怒だった頃,ヒットした曲であるが、この当時ハーフは今ほど持て囃されてはいなかった。私の居住地区には当時まだ米軍基地があり、外人と軍服は見慣れていたが、ハーフやクオーターはアイノコといって差別していた時代だ。小山ルミとかゴールデンハーフなどのハーフやクォーターがどんどんテレビに出るようになって、世間が見慣れてきたのか、特別視しなくなった気がする。エレキブームの真っ只中、ハーフブームが起きていたのだ。いま考えると、遺伝子の遠いほど人間は進化するのに、既成意識が阻んでいた時代でした。

ボヘミアン、ラプソディー(Queen)


クイーンはもう存在しない。バンドの命であるボーカルが不治の病でなくなった。素晴らしいギタリストもいたが、ひとりでも欠けたらクイーンだはない。ピアノで語る悲しい叫び、ママ-ママ-と言う声。今時の女学生だったらマザコンでかたずけてしまうでしょう。この曲の根底に流れるペーソス、これも死語でしょうか。時代が変わると命の価値観も低くなり、頭に来たから誰でもいいから殺す。そんな時代に、この曲を流したい。

無錫旅情(尾形大作)日中文



この曲もいい曲なので載せておきましょう。中国人の熱狂ぶりはすごいパワーを感じます。日本より人気があるのではないでしょうか。アジアで売れるって大変なことですよね。あまりに大ヒットは、阿吽倶流のブログの趣旨から外れるのですが、たまにはいいことにしましょう。本当に、音楽には節操の無い人間で、気に入ると何でも聞きます。

大連の街から(城之内早苗)


故、中山大三郎先生の作品。無錫旅情で大ヒットした無錫では、観光収益が相当あがったという。新興都市、大連でも、それにあやからんと中山先生に、ぜひとも大連の曲を、と言うことでこの曲が作られた。曲調も編曲も歌手も、同じでは前作にそっくり。そこで、競作として城之内早苗が対抗馬として唄った。尾形大作の無錫パート2という感じより、新しい曲という感じになった。


 http://www.youtube.com/watch?v=CqUkQsv9v7k
 

2009年9月22日火曜日

朝日楼(ちあきなおみ)

ジ,アニマルズの”朝日のあたる家”に淺川マキが和詩をつけた作品。ちあきなおみ、の抜群の歌唱力と、和製ブラックコンテンポラリーのソウルに響く振動。色の無い、モノクロームの映像しか浮かばない唄世界が、心臓をキリキリと締め付ける切なさ。一度聞いたら、もう聞きたくないのに、また聞きたくなる不思議な衝動だ。とにかく、表現できないくらい魅力のある歌手である。

ラ.ボエーム(シャルル.アズナブール)


モンマルトルの安アパートで、若き、芸術家を目指す男女が、夢半ばで別れてしまう。熟年になり、そのモンマルトルに来てみたが、もう想い出だけが残るこの町には、何の意味も無い、つらい街だ。よくありそうで、なさそうな、若き日の回想。阿吽倶流も高円寺の安アパートに居た頃、同じような経験があり、この曲ははずせない。若い日の、未成熟な余裕のない人格。それぞれが、お互いを許せなかった、悲しい曲だ。今だったら、は絶対無い。それが、運命というものだ。

2009年9月21日月曜日

帰ろうか(松山千春)


この曲は、阿吽倶流の弾き語りナンバーの定番である。10代のころからギターを独学で始めて、最近めっきり引かなくなったのですが、スナックなどで生演奏をしたり、エレキバンドを結成したりしました。オヤジバンドは、世間の風当たりもあり解散しましたが、カラオケよりも弾き語り馴れして、ギターを抱いていないと落ち着きません。

2009年9月20日日曜日

粉雪のラブレター(東京ロマンチカ)

鳴かず飛ばずのこの曲が、歌詞をいじることによって大ヒットする。業界ではよくある話ではある。なにがそうさせるのか。太宰治の”人間失格”のなかに、主人公が友人と物干し台(ベランダ)に出て話をする場面がある。言葉には悲劇名詞と喜劇名詞があって、汽車や汽船は悲劇、市電やバスは喜劇、と言うくだりがある。作者は、ラブレターという喜劇名詞を使ったことで雪の冷たさが半減したことに気ずかなかった。のちに、ラブレターを外した事で大ヒットした。たかが歌の文句でも、文学なんですね。

北国にひとり(舟木一夫)

こじんまりまとまった曲であるが、悪いところが無いので、ファン以外にヒットしない。阿吽倶流は20代の頃、作詞家を目指して勉強した。なかにし礼先生や阿久悠、星野哲郎、先生の講習なども受けたことがある。辛口批評をすると、まず、編曲が当時ヒットした”小樽の人よ”だ。作詞曲は才人、荒木一郎氏が女性名で書いている。イメージする場面が見えない。白い息が、とか片の雪を掃う、とかが見えない。好きだ悲しい離したくないばかりである。唯一、青い太陽、見上げてた、とは無理がある。なかにし先生だったら、あなたの眼を見ていた、だろう。いろいろ生意気いって御免なさい。作者様、しつれいしました。

2009年9月19日土曜日

サロマ湖の空(三田明)

阿吽倶流がまだ樹仁阿の頃。青春歌謡が全盛期で橋、舟木、西郷、の御三家がヒットしていた。そこへ、遅れて三田明が参入して四天王と呼ばれ、いまでは想像もつかない若者の結集した”根っこの会”の支援を受けてヒット曲を競っていた。私のお兄さん世代のあまりヒットしなかった曲だが、なぜか、頭の中に残っていて、この地を訪れた時に、蘇えってきた。布施明の”霧の摩周湖”とおなじ条件反射のような曲だろうと思う。

太陽のあいつ(初代ジャニーズ)

これは、曲ではなく、このジャニーズのリーダーである先頭の、真家宏満さんとの想い出である。友人の紹介で飲み友達になり、自宅へも遊びに行ったり、居合わせた雪村いずみさん、飯野をさみさん達とマージャンをしたり、マネージャーになりすましTV局に出入りしたことを、昨日のことの様に思い出します。彼の死を知ったのは新聞でした。タレント活動のほかに、タクシーの運転手をしたりしてたけど、宝塚出身の奥様と別居していたので、心筋梗塞を起しても間に合わなかった様です。兄貴のような人でした。

2009年9月18日金曜日

暗い港のブルース(キングトーンズ)

ジャパニーズ.ドゥーワップの元祖、キングトーンズの感動。映画”太陽がいっぱい”のテーマ曲を想わせるトランペットの切ない響きが、なかにし礼先生の悲しい詩にピッタリはまって、独特の世界感を創りあげている。黒塗りのシャネルズよりも先輩の、キングトーンズの名曲をじみじみ聴こう。

2009年9月17日木曜日

北国の二人(ブルーコメッツ)

ブルーコメッツといえば”ブルーシャトウ”だけど、北国フェチの阿吽倶流はこの曲がすきだ。雲が流れる北国のまちへ、そこは美瑛のような町だろう。そんなところで恋をする二人。憧れたものだ、まだ野吽愚のころ。だけど、青年のころは金も無く時間も無く度胸も無く、ないないずくしで仕事ばっかし。阿吽倶流になってやっと叶った北国旅行。もう、恋する歳でもないし、これを唄ってる人も死んでしまった。

砂の十字架(中村晃子)

昭和にヒットした”虹色の湖”という曲がある。この曲も虹色の強烈なイメージに埋没した、ある意味不幸な曲である。虹色にもこの曲にも共通した内容がある。それは、もう戻らない戻れない、という救い様の無い悲しみ。大抵作詞をする人は、どこかに希望とか光を書き込む努力をするのだが、この曲達にはそれがない。とことん切ない、悲しい。まあ、それもエンターテイメントのひとつかもしれない。

北国の春はみじかい(奥村チヨ)

奥村チヨの”北国の春はみじかい”であるが、ベンチャーズの作曲した”北国の青い空”hokaidoskisのセカンドヒットを狙った曲であったが、一作目のイメージが強烈だったので、時の流れに埋没した。もし、この曲が単独で、いや、”北国の青い空”が出ていなかったとしたら、この曲も作られなかったのでは、と思うと、なんと運命的な名曲ではないか。それを思いしみじみ聞きたい。