2011年5月31日火曜日

北国の春 (チベット語)

30代の頃にアジアンPABたら言う飲み屋に通ったものでした。アジアの女性が、結構不正就労している店で、そんな店の女性たちが好んだ曲がこれだった。台湾、フィリピン、タイなどのアジアンたちは、お金を稼ぐのに日本に来たものの、体を売るほどではないが、貧しい国の家族に仕送りするために飲み屋でホステスをする。そんな彼女達の心を癒したのがこの曲で、国を超えて愛されたのだ。台湾旅行をした時に世話になったり、結婚式にフィリピンに招待されたり、けっこう良い関係を築いていた友人のような関係でした。いまこの曲を聴くと、私的には千昌夫ではなく、彼女達の歌声が思い出される。

2011年5月30日月曜日

北国行きで (朱里エイコ)

♪次の北国行きが来たら乗るの♪今でも出てくるこのフレーズは、もう何年前の曲になるのでしょう。当時は美脚№1の彼女はスタイルの良さと、R&Bのプリンセスとして注目を浴びていましたが、何年か前に天国へ旅立ってしまいました。日本の歌謡曲の基本である失恋は、ほとんど北国の人が主人公のようです。例えば、北国へ来た女性が失恋をして、沖縄に帰ってハイビスカスの花の下で男を恨んで涙を流す。こんなシーンは悲しく見えますか?、見えませんよね。気候の良さや明るい光線が曲の悲しみを半減してしまうのです。やはり、涙も凍るほどの寒さがないと、悲しみは倍増しないのですね。

2011年5月27日金曜日

さいはての湖 (日野てる子)

この人も昭和の頃、人気があったのですが、平成になって全く見なくなりました。ハワイアンソング出身の、その魅力的な裏声はハートにグッときました。この当時に”さいはて”ブームがありまして、何でも最果てを付けるとヒットした事があったのです。それも、北の最果てのイメージが日本人の心に悲しい雰囲気を与えるようなんです。南半球に行けば、雪が降るのは南で、南国は冷たく北国は暖かい。ニュージーランドの人には日本の心は通じないでしょうね。すこし外れましたが、来週から北海道旅行をするので、北の歌集をやろうと思います。

2011年5月26日木曜日

ケンメリ 「愛のスカイライン」 (BUZZ)

北国、北海道と言えば車好きのわたしは、このCMが忘れられません。まさか、この木の下に来るとは、それも何度も、この地を踏みしめるとは思いませんでした。CMを見た頃は、綺麗な場所だな、とか広々しているとかの印象で、そこが何処なのか行ってみたいなどの思いはありませんでした。この歌はCM版で♪愛のスカイライン♪、のところが原曲では♪愛と風のように♪となっていますが、私の頭の中ではスカイラインと響きます。五十代の頃、会社が倒産したので人生の大型連休と思い、北海道一人旅を決行、美瑛の街に来てあのCMのケンとメリーの木がここだったのを知りました。それからもう、幾度かここを訪れています。

2011年5月25日水曜日

函館山から (美空ひばり)

この曲は私の青春時代に大きな影響を与えた、あの小椋佳さんの作品です。それをミス昭和の美空さんが唄い、あの函館を舞台に中高年の哀愁を唄っている、私の心境にぴっったりの作品です。しかし、私は昭和に函館山を訪れたことはありません、つい4,5年前の平成になってからです。それなのに何故か懐かしい思いがするのは、路面電車やレンガ造りの倉庫などの風景が、子供の頃に見た風景と合致するからです。懐かしい昭和や大正明治の町並みがそのまま存在しているからです。私は昭和生まれなので、それ以前は知りませんので全てが昭和にかんじます。函館は私の昭和風景なのです。

2011年5月24日火曜日

みちのく一人旅 (ディ-プパ-プル風)

ことしの東北の震災でフェリーでの北海道入りが、太平洋側が無理なので、思い切って日本海側から行くことにしました。新日本海フェリーの敦賀発、新潟、秋田経由の津軽海峡を抜けて苫小牧東行き、と言う鈍行みたいなのがあったので、新潟から乗船する事にしました。思えば、東北の旅もしましたし、その場所を海から見られるのも一興かと思います。そこで、この曲を選びました、それもヘビーメタル風な激しいやつで、オリジナルではありません。北国行きの雰囲気は、落ち込み気味になるので、景気付けに盛り上げましょう。

2011年5月23日月曜日

恋の町札幌 (石原裕次郎)

連想更新も一区切りついたところで、今年の私の旅は北海道に決まりました、決まりました、では無く決めましたですか。6月1日より半月くらい、道内を彷徨ってきます。そこで、これから少しのあいだ北国にちなんだ曲を更新して行きたいと思います。昭和の好きだった私は、ミスター昭和の石原裕次郎さんやミス昭和の美空ひばりさんが活躍した時代に青春時代を過ごし、お二人とも平成まで生きていてくれませんでした。しかし、歌は残っています、たとへ平成が終ろうとも、いつの時代にも昭和を唄ってくれます。北国の都、札幌の唄でピンと閃くのはこの曲でした。彼の記念館は隣の小樽にありますね。

2011年5月20日金曜日

空港 情人的關懷  (鄧麗君.テレサ・テン)

北京語で日本のヒットを歌っている外人女性アーティスト、で分類しているとこの人にあたります。若くして亡くなった彼女の死因はさまざまな憶測があるが、このブログの範疇ではない。30代の頃に会社の業務成績が良いと台湾旅行を進呈された。取引会社の社長連中に混じって、5人ほどのツアーが組まれ、下請け会社の社長と意気投合、南京北路などのクラブへいきました。当時は八代亜紀さんの雨の慕情などが北京語で唄われていました。チャイナドレスの美女達に囲まれ、北京語の歌謡曲を聴く。贅沢な話です。しかし、私以外はみんな社長、私はぺーぺー、圧倒的に財力が違います。帰る頃にはスッカラカンで、お土産も買えませんでした、だけど、素敵な思い出と言うお土産を、今でもいっぱい持っています。

2011年5月19日木曜日

雨中旅程 《雨のエアポート》  (欧陽菲菲)

そして沖縄のはずれ与那国島のむこうには台湾があります。そこから来た人で、のちに式場財閥の御曹司と結婚して逆玉に乗ったのがこの人である。デビュー曲は以前にベンチャーズの時紹介しているので、第二デビユーのこの曲を選びました。そして、北京語のアチャラ版が有りましたので聞いてみましょう。昔のはなしですが、まだ中国の読み方が分らないので、面白半分でオーヨーニラニラなんて失礼な読み方をしたものです。彼女はデビュー当時からオバサンぽいキャラで、幾つ位なのか不明でしたが、時代が移ると変らぬ美貌で、時代の変遷を感じさせません。式場婦人よいつまでも若くあれ。

2011年5月18日水曜日

17才 (南沙織)

ミーナから南えと半ば強引に繫げてしまいました。この人は日本人でしょうが、という人もあるでしょう。でも、彼女がデビユーした時代には、沖縄に行くのにパスポートが必要だった時代なんです。車も左側通行だったし、米ドルが使われていたのですよ。それをもって日本人と言い切れるでしょうか。その当時の沖縄の住民はアメリカの一部だったのです。そしてアグネス.ラムのように小麦色した女の子でした。今でも沖縄の人は本州の人と沖縄の人を、違う呼び方をして分けています。ですから、彼女イコール日本人という計算にはならないと思います。

2011年5月17日火曜日

別離 (ミーナ)

このうたは越路吹雪さんなども出していましたが、何といっても当時はミーナでした。と言うのも、少しずつ外人になれて来た日本人が、あの拙い外人訛りの日本語が、以外と心地よい事に気が付いてきた頃なのです。今では日本語ペラペラな外人タレントまで、わざと外人訛りの喋り方をして受けを狙っています。ミーナのデビユーしたころは、狙わなくても受けていました。何かまったりとした曲で、だらだらした運びのこの曲は、悪口ではないのですが、中途半端な感動で破綻しています。当時の女性はそれなりに共感したのでしょうが、今日日の女性はもっとあっけらかんとしています。

2011年5月16日月曜日

ひなげしの花 (アグネス.チャン)

東洋でもアグネスはいました。アグネス.ラムが定着した頃、まるで正反対の少女がデビューしたのです。その頃わたしは青年でしたから、ラムのほうには興味はありましたが、今の秋葉時代と違って、まるで中学生みたいなチャンのほうには興味はありませんでした。それに、唄のメロディーが、♪おっかのうえ、ひーなげしーのはなが♪どう観ても変な日本語でしょう。それに、ひなげしとはポピーの事でしょ、見るからに花弁が大きくて、花弁で占うほどありません。ひと目で来る来ないなんて分りますよね。作詞家修行をしていた私から見ると、本当に奇妙な作品でした。

2011年5月13日金曜日

Im Agnes (アグネス.ラム)

この人を外人女性アーティストに分類していいのか悩みますが、一応レコードを発売しているで良しとしましょうか。彼女の印象は、日焼けした肌によく似合う、マスタードカラーのワーゲンの種類でカルマンギアという愛車から颯爽と降りてきて、片手を口に添えて”ホ~ッ”と声をかけると、男性陣が総崩れするコマーシャルです。あの童顔でくびれたボディのアンバランスさが魅力的で、当時トップグラビアアイドルを産出していたクラリオンガールとしても話題になりました。とにかく昭和の妖精は小麦色が多かったようです。今みたいに日焼けは皮膚癌のもと、なんて知らなかった時代でしたから。

2011年5月12日木曜日

アドロ (グラシエラ.スサーナ)

外人女性アーティストもいろいろ居ましたが、その中でも、この人ほど抜群に暗い存在は居なかったでしょう。とにかくヒットする曲がどれも暗い、絶望の淵での愛の歌なのです。感情移入がものすごく、聞くものみんな感激より先に暗くなってしまう。他のヒット曲の”サバの女王”とかでも、聴いてるひとが死にたくなるほどオモッ苦しいのです。唄は上手なのですが、多感な青春時代にこういう曲を聴いていると、心のそこからブルーになります。わたしの青春時代に、この唄の影響もあって、♪わたしの人生暗かった♪のですよ。

2011年5月11日水曜日

やさしく奪って (シェリー)

キャンディーズやピンクレディーが全盛期の頃、お茶の間外人アイドルとして、バラエティーやお笑い番組などでブレークしたシェリー、格好わたしはファンでした。実は彼女は歌手だったのですね、そういえばヒットスタジオなんかにも出ていました。でも、ヒットに恵まれず、お約束の、おもろい外人になってしまったのです。彼女はどこか日本人的でもあるので、もしかしたらハーフかもしれないと、当時から思っていました。それはともかく、とうじの外人ハーフの女性の綺麗だったのには驚きました。その当時からの趣味を引きずって、いまでも、道端アンジェリカなんか、とても可愛いと思います。

2011年5月10日火曜日

恋はみずいろ (ヴィッキー)

この人もむかし日本で話題になったひとで、いわゆる膨れっ面で思い出すのである。膨れ、というのはマッカートニーやスタローンに代表される顔立ちである。子供の頃にこの人を観て、なんて不満顔なんだろうと思っていたが、今思い返すとこんな顔は、白人にはよくある顔だと言う事がわかった。まあ顔はどうでも良いのですが、この曲はそこそこヒットして水色という色をメジャーにした曲でもあります。現代でも、水色と言えばほとんどの人がこの曲を思い出すでしょう。その後、ポールモーリアが演奏でリバイバルして、再びヒットした事もおもいだします。そして、あの膨れっ面の彼女も。

2011年5月9日月曜日

情熱の花 (カテリーナ,バレンテ)


忘れていた外人の女性歌手で、こんな人がいました。今でもたまに聴く事がある”恋のバカンス”を歌ってヒットして、それをザ.ピーナッツがカバーして、いつの間にか彼女達のレパートリーになってしまったという、そんな存在の人です。この曲もやはりピーナッツのヒット曲になりましたが、いわば、本家、とか元祖なんですよね。この当時、洋楽を日本人用に訳詩をして、日本の新人歌手に自分の曲のように発売した時代があって、現代のようにカバーという観念がなかったので、本家も悔しい思いをしたのでしょう。でも、この曲はベートーベンの曲をアレンジしたらしく、パクリが多い音楽業界のようですね。

2011年5月6日金曜日

忘れないわ (ペギーマーチ)


忘れ、忘れ、で”忘れないわ”と来てしまった。この曲を思い出したとき、かならず思い出すのは修善寺だ。むかし、ある会社の社員旅行で伊豆に行き、野田屋というホテルに宿泊した。食事も終わり、暇だったのでホテルのバーにお邪魔してカラオケなどを歌っていた。そこえ宿の女将が現れて、わたしにこの曲を歌ってくれないかと言って来た。女将の思い出の曲らしい。おかげで私の思い出にもなってしまった。この曲は外人が唄っているが、れっきとした国産である。このペギーマーチは小さい頃から日本に来ていて、確か小さな頃はリトルペギーマーチだったような記憶がある。しかし、いまでもいい曲だと思っています。

2011年5月3日火曜日

忘れな草をあなたに (東京アカデミー混声合唱団)


ゴールデン.ウィークのど真ん中に平日があると、ついつい忘れてしまい休日のような気分で、更新するのを忘れていました。そこで”勿忘草をあなたに”という名曲を出しました。本物は、勿忘草とは書かないで忘れな草と書いてありますが、正式には勿忘草のようです。子供の頃にこの歌を聞いて、忘れ、と名草で区切ってしまい、ずっと忘名草だと思い込んでいました。だから名前を忘れないようにこの華を貴女の送るのかと、勝手に思い込んでいたのです。忘れる植物に、茗荷と言うのがありますが、あれは物忘れが激しい坊さんの墓にいっぱい生えていたので、茗荷を食べると忘れっぽくなると言う話です、関係ないか。