2010年4月30日金曜日

夏をあきらめて (サザンオールスターズ)


悲しきシリーズもこのへんで終りにして,通常の名曲集にもどりましょう。湘南ボーイという言葉が流行った時期があった。わたしがまだ20代の頃、加山雄三さんを始めサザンの桑田氏も含め、何となく海の匂いがする青年を称する。勿論、湘南で育ったのが条件だが、通い湘南と言って毎週のように茅ヶ崎あたりに出かける人も含まれる。その中で、湘南のシンボルでもある江ノ島とパシフィックホテルは聖域でもあり、恋人同士でよく行く場所である。その湘南ボーイに憧れて、私もそれらの場所には行ったものでした。白でカモメの絵がデザインされたアロハをきて、綿色のコッパンを履いて、ビーサンに履き替えて闊歩したものでした。今でも車のナンバーで湘南ナンバーが人気ですね。

2010年4月29日木曜日

悲しきわがこころ (サザン. オールスターズ)


このサザンと言うバンド、デビューした頃からふざけた事をやってましたね。この桑田さんは、ビートタケシさんに通ずるものを持っているような気がします。あれだけの名曲の数々を作曲しておいて、尚且つひとを笑わせる事を望んでいるのですから、多才です。この桑田さんの写真を見て驚いてるひとがいました、俳優の長門裕之さんです。若い頃の長門さんとクリソツなんですからビックリですよね。彼の出演した”太陽の季節”のスチールとサザンのデビュー当時のジャケットは本当にそっくりです。これから推察するに、このふたりに共通するのは湘南の海です。したがって二人は湘南顔なんでしょうね。

2010年4月28日水曜日

悲しき呼び声 (トム.ジョーンズ)


彼が日本へ来日にたのは、私が二十代のころでした。友人と深夜の青山でナンパした彼女はジャズを歌っている歌手だったのですが、しばらく付き合っているうちに、友達が増え、クラブのホステスや、トランペットを吹くアクロバットダンサーなどという友達の輪が出来ました。私が作詞の勉強をしているのをしったホステスさんが、なかにし礼先生を紹介してくれたのです。それがトムジョーンズが日本公演をやった夜でした。ホステスさんが店を休んで公演を観に行ったので、店が軒並み臨時休業となって、友達に電話があり、そのホステスさんのマンションに泊まりに言ったのです。もう友達関係でしたから不順な事はありませんでしたよ。

2010年4月27日火曜日

悲しきメモリー  ( 郷ひろみ)


◎郷ひろみさんといえばもう五十代になるんですよね。私が初めて生で郷さんをみたのはTBSの入口ででした。高校生の時に、少女歌手の後援会関係者だったのでTBS(東京放送)に頻繁に出入りしていたので、けっこう芸能人には逢いました。ちょうど車からフォーリーブスが降りてきたところで、後ろの車の最後に郷さんが降りてきたのです。まだ中学生くらいで、リーブスの弟分としてデビューしたのです。後に初代ジャニーズの真家ひろみさんと友達になってから、郷さんのひろみは真家さんのひろみを分けたのだと言っていました。その真家さんも心筋梗塞で亡くなり、郷ひろみさんも五十代とは、時の流れの速かった事を感じます。

2010年4月26日月曜日

悲しき友情 (西城秀樹)


西城さんの名前は、本当か嘘かは確かではないのですが、陸軍大将の東条英機が発想になっているらしいのですが、ほんとうでしょうか?。あの頃青春御三家と呼ばれ、郷ひろみ野口五郎さんと人気を三分していた懐かしい時代です。最近、西城さんも脳梗塞だかで危険な状態から復活して、いまは元気に活躍していますが、あの時は驚きました。私もそれを教訓に水分を取るようにしています。それにしても、いつまでも若い気で居たら、気がついてみたら年金が貰える歳になるんですね。あの、青春御三家も年金を掛けていたのでしょうか?。そして貰うのでしょうか。なんか、寂しい話になりました。

2010年4月25日日曜日

悲しきためいき (キャンディーズ)

キャンディーズも大人になりました。爆発的な人気に夢中になった若者は、私達の下の年代でその後ニューファミリーなんて呼ばれてましたね。この頃から親衛隊なんて組織が出来て、過激な応援合戦が繰り広げられました。歌なんて聞こえないくらいの声援で、前列にはカメラ小僧なるパパラッチ集団が何を狙っているのか?。私らの時代はテープと言うのがありまして、船が出港する時のように、スターとテープで続がって満足していました。それもいつしか危険だから禁止となり、歌舞伎のように掛け声となり、合いの手なんてもんじゃなく、のべつ騒いでる連中が増えたのもこの時期でした。

2010年4月24日土曜日

悲しき街角 (デル・シャノン)

悲しきといえば街角が最初に出てくる年代、それが団塊の世代だと思います。1960年代は本当に名曲の宝庫でしたね。映画”アメリカングラフィティ”でも沢山の名曲が流れ、車はアメ車のでっかいのが悠々と走り、希望に向かって生きていた時代です。あのベトナム戦争がおきるまではアメリカも日本も、こんな時代が来るとは思っていなかった。アメリカでも団塊の世代っているのだろうか。60年代の青年たちは日本で言えば昭和の真ん中だった。なぜか不便でも便利になりつつある時代で、携帯電話なんてありえない、トランシーバーという無線機があったぐらいだ。ちなみにトランスミッター(送信)レシーバー(受信)の合成語であるのだ。

2010年4月23日金曜日

悲しきあしおと (竹内まりや)

悲しきシリーズを続けていますが、阿吽倶流は今頃九州を走っているでしょう。コメントは一時中断します。あしからず。

と思いきや、奈良の道の駅から書いています。なかなか接続出来なくて、ここでやっと続がりました。帰るまであと少し、更新少し待ってください。いま、毎日変わるのは予約してあったのです。奈良からの更新が初めてです。それでは、おやすみなさい。

九州から帰りましたので少しずつ書き足しておきます。

2010年4月22日木曜日

悲しき慕情 (二ールセダカ)


二―ルセダカは”恋の片道切符”が有名ですね。今わたしも旅の最中だという事で、片道切符にならないように、気張って運転します。オールディーズの曲は、真空管アンプで聞くと、時代の色と匂いがしていいものです。匂いがあるのは確認済みで、真空管の中心にあるカソードと言う所が赤く光り、プレートで受けきれなかった電子が、空気にふれてイオンが発生するのです。だから、真空管アンプはイオン発生器みたいなもので、昔、秋葉のラジオデパートなんかはいい匂いがしていました。

2010年4月21日水曜日

悲しき子守唄  (高石かつ枝)


高石かず枝と言う名前は、ドラマ’愛染かつら’という中の主人公の名前らしいのですが、なにせ、子供の頃に大人が話題にしていた事で、私にはチンプンカンプンで何の事やらでした。大人になってから、愛染とは愛染明王という仏教の仏様の事だと知りました。かつらは頭に被る奴ではなく、桂の木だという事も後から知りました。子供って、下らない事を考える者ですね。その頃のドラマで’月よりの使者’というのもありましたが、月光仮面の事だと思っていました。

2010年4月20日火曜日

悲しきハート (じゅん&ネネ )


じゅんとネネの名前を聞いた時、じゅんは良いとしてもネネなんてふざけた名前があるのかと思った。産れたばかりの子をネンネと言うので、その事かと思っていた。大人になって太閤記を読んで、ネネという名前がそんな昔からあったのを知り、自分のアサハカさを恥じました。このネネさん、最近まで東京の孤島で村長をしていたらしい。ひさしぶりにテレビの番組に出てた、歌手にも色々な人生があるのだと、つくずく感じさせられる日々です。私も若い頃に見ていた夢や希望とは、ずいぶん違う場所に立っていますが、それが運命なのかも知れません。

2010年4月19日月曜日

悲しき悪魔 (エルビス.プレスリー)


このブログをはじめてから、まだ一度も出ていなかったのが不思議です。エルビスはアメリカの象徴でした。大統領は変っても、デビューして亡くなるまで、アメリカを背負った歌手はなかなか居ません。アメリカンポップス、ロックの教祖といっても良いでしょう。裏にはアメリカの抱えた黒人問題や、いろいろあって、ジャズやブルースもありますが、白人が創り出した音楽ロックはエルビスによって確立されたのだ。そして、ロックが硬くなりハードロックに、もっと硬くなりヘビーメタルと変化していったのである。

2010年4月18日日曜日

悲しき口笛 (美空ひばり)


実に歌の上手な少女でした。生きていれば私より年上になるのですが、私も彼女の年を越しました。古いモノクロの映画で、燕尾服の少女がこの歌を、情感豊かに歌う姿に感動します。この歌の歌詞で、♪丘のホテルの赤い灯も♪と言うには、彼女の実家、神奈川県磯子から見えるプリンスホテルの事でしょうか。もちろん、わたしは放映当初観た訳ではありません。大人になって、そこそこ人生が解かってきてからの感想です。ひばりさんより年下で、ひばりさんの歌が理解できる筈も無い。もし解かったらこちらが天才になってしまう。昭和を語るにひばりさんを無しに語れないでしょう。 

2010年4月17日土曜日

悲しき初恋 (パートリッジ・ファミリー)


むかしテレビの番組で、このパートリッジ家族の暮らしをドラマにしたものを放映していました。もちろん、ドラマの中で演奏したり、巡業旅行のエピソードなんかもあったりします。家族バンドなんかで、ジャクソン.ファイブなんかもいましたが、ドラマはやっていなかった。家族ではないですが、モンキーズというグループも毎週定期でドラマをやっていたと思います。家族的でほのぼのバンドと言う事で、ヤングの間で流行った事は流行ったのですが、爆発的とはいきませんでした。やっぱり、ホームドラマより恋愛対象になるアイドルのほうが騒がれたのかも知れません。

2010年4月16日金曜日

悲しき少年兵 (ジョニー・ディアフィールド)


少年兵の歌らしいのですが、日本でも学徒動員といって、まだ社会人になる前の人達を、戦場に送った不幸な時期がありました。本当か嘘かわかりませんが、昔の戦闘機には、ろくなレーダーは無く、人の目に勝る物はないと、体重が軽く動体視力が優れている十代の少年を、レーダー替りに戦闘機に乗せていたらしい。現在戦闘地域の国でも、心が固まる前の少年を、戦闘や自爆テロに使ってる人間が存在している。はやく、そんな事が無い世界を創りたいものです。古くは白虎隊や二本松少年隊も、この”悲しき少年兵”にあたるのではないでしょうか。

2010年4月15日木曜日

悲しき片想い (ヘレン.シャピロ)


ウオーウオーウオーと、魚屋ではありません。オーイエーイエーイエーと大工さんでもありません。結局この歌詞は何だったんでしょうね。この当時のレコーディングはやたらにエコーがかかっていて、まるで風呂場かトンネルで歌っているようでした。現代はデジタル技術が進んでいるので、どんな人が歌ってもデジタル処理をすれば、スタジオ録音の場合、素晴らしい録音になるでしょう。だから、ライブでがっかりする歌手もいるのです。お風呂で歌いたくなる気分、何となく解かりますよね。ほんと、上手く聞こえるんですから。

※今日から約10日間、西日本から九州への旅をしてきます。無事帰還するまで更新できるか解かりません。無線ランの環境があれば、旅先から報告いたします。それでは、しばし。

2010年4月14日水曜日

悲しき16才 (木ノ内みどり)


ザ・ピーナッツ意外にも歌っている人は多かった”16歳”だが、”60歳”という反対の曲もある。当ブログでは前に載せているのでそれは割愛する。アメリカのポップスで、日本語訳で流行ったのが何年前だったろう?。レコードのジャケットからしても、まあピーナッツの垢抜けない事。でも、当時はそれでも先端いってたようなんですが、時代はめぐると言いますから、ファッションもめぐります。平成生まれの人も二十歳を過ぎて、昭和のファッションは始めてみるのだから、あながち古いとは言い切れません。最近若い人が昭和の歌に興味があるらしいのです。今回は木ノ内みどりさんで。

2010年4月13日火曜日

悲しき天使 (メリー・ホプキン)


メリー・ホプキンの曲が日本で流行ったのが最初で、それから、いろんな人がカバーをしています。天使といえばキューピットの事だと思いがちですが、子供の姿で背中に羽が生えているのが一般に知られている天使像のようです。夢のような話ですが、オジサン型天使の目撃情報が、最近飛び交っているようなんです。大きさは手のひらに乗るくらいで、姿はオジサン、関西ではオッチャンで、決まってボーっとしている時に出てきて意見するらしいのです。天に使わされた者であればこれも天使です。手乗りのオジサンを阿吽倶流(アンクル)と呼びましょう。

2010年4月12日月曜日

悲しき鉄道員 (ショッキング・ブルー)


あの”ビーナス”で有名なショッキング・ブルーの、この曲は、親友のMK君がよく聞いていた。彼の家は国鉄一家で、鉄道員でないのは彼だけである。私がテスト.ドライバーをしていた時、後輩で入社して来た。一般路耐久で、都内を走るとき二人一組でペアを組むのだが、食事の時間に車に残るのだ。話を聞くと母親が弁当を持たせてくれるそうだ。その時ステレオで、自前のテープで音楽を聞きながら弁当をたべていた。それから始まり今だに、親友のひとりである。現在は結婚して、路線バスの運転手をしているが、悲しき運転手では歌にならないよなぁ。

2010年4月11日日曜日

悲しき雨音 (カスケーズ)


稲妻の音から始まるこの曲は、いまでも雨のシーンがあると、映画やドラマのBGMとして流れますね。ある意味、雨音から連想される曲で、真っ先に出てくるのはこの曲だろうと思います。人それぞれ、この曲から思い出す出来事があるのでは?。中学生の時、富士五湖のひとつ西湖にキャンプに行った。男女×2で、不順な関係は全く無く、純粋に学友としての旅だ。駅からの雨が降る道で、キャンプ場まで送ってくれたローレルに乗った、見知らぬオジサン。キャンプ場の夜、稲妻がキャンプ場を襲った。この曲はあの遠い日を思い出す。よく思い出せないが、親には男同士の旅だと嘘をついたのかもしれない。

2010年4月10日土曜日

悲しき叫び (ジ.アニマルズ)


”悲しき願い”の本家、アニマルズの”悲しき叫び”。このジ.アニマルズが脚光をあびたのは”朝日のあたる家”だったが、当ブログでは”朝日楼”という曲で紹介済みである。そして、次のヒットが”悲しき願い”なのだが、これは日本特有の順位であって、母国では違っているかもしれない。知っているとは思いますが、英語の母音が先頭に来る場合、Theはザではなくジと発音するので’ジ.アニマルズ’となる訳で、私がバンドを組んだら、’ジ.アンクルズ’となる訳であります。この当時、平凡、明星と言う歌謡雑誌ではなく、ミユージック.ライフを買っていました。そこに書いてあった記事から学習しました。

2010年4月9日金曜日

悲しき願い (尾藤イサオ)


悲しきと言う曲の多さには驚く。私が少年の頃から十年以上、悲しきブームが歌謡界にあって、悲しきを付ければヒットするという、全く安易な風潮が定着していた。しばらく、悲しき特集を続けてみよう。”朝日のあたる家”で大ブレークした’ジ.アニマルズ’と言うバンドの”悲しき願い”はボーカルのエリック.バートンがハスキーボイスだったので、同じ声質の尾藤イサオさんが起用された。私が大塚という場所で、バーテンダーのバイトをしていた地下のトリスバーに、尾藤イサオさんの御兄さんが常連で来ていた。たまに本人も来店して、結構酩酊するまで飲んでいました。話の解るいい人でしたよ。

2010年4月8日木曜日

悲しきインディアン (ケントス)


インディアン絡みの曲で”悲しきインディアン”と言うウエスタンの曲があった。原曲はランニングベアーと言って、走る熊さんなのだが、これも関係者がイントロをきいてインディアンの踊りを連想したのだろう。無理やりインディアンを強調しなくても、軽快なこの曲は充分ヒットしたと思うが。走る熊さんでは、解らないでもないが。ちなみに、このケントスと言うバンドは、六本木を根城にしたリサイクルバンドで、黒澤明監督の御曹司黒澤久雄しが監修している懐メロバンドである。阿吽倶流が所属していたバンドとコンセプトがかぶったいる。

2010年4月7日水曜日

恋のインディアン人形 (リンリン・ランラン)


芝大門に劉園と言う中華レストランが出来た。あの時代のステータスシンボルだったこの店のTVコマーシャルが忘れられない。♪リンリンランラン劉園♪のフレーズが、今でも脳裏を過ぎるのだ。名前で気付いたと思いますが、中華系の白人双生児なのですが、お下げのヘアースタイルが、その頃テレビのウエスタン番組に出てくる、インディアンに似ている事から、音楽関係者のバカタレが安易に発想したものと思われる。単一少数民族を、本人達の了承も無く勝手にコスチュウ―ムを捏造、いまでは非難されるべき案件である。インディアンと言う呼び方も変わり、今はネイティブ.アメリカンと表現している。

2010年4月6日火曜日

花のように  (ベッツィ&クリス)


外人女子で爽やかな雰囲気の二人組みと、高度成長をはじめた日本の若者が、戦争を知らない年代に突入したのもこの時代だ。私たち戦後生まれは空襲を知らなければ、原爆も知らない。物心ついた頃には、チョコレートをくれるアメリカ兵や、基地内のボーリング場で遊ぶ外人家族しか知らない。太平洋戦争は消えていたのだ。彼女たちが歌っている日本はもう連合国側になっていた。年寄りの話では竹槍訓練や本土決戦という、ナンセンスな事を語る年寄りの思い出も、この頃にはアメリカを憎む日本ではなくなっていた。逆に、日本の防衛をするアメリカが、そこにあり、それに賛否する若者が、世間をにぎわしていた。逆転の時代でもあった。

2010年4月5日月曜日

白い色は恋人の色 (ベッツィ&クリス)


二人組みにも色々あるが、外人女子のデュオはめずらしい。あの頃流行ったカレッジフォークというジャンルで、綺麗なハモリが売り物の、金髪ペアはにんきがあった。この曲が出た頃、私もデカボディーのフォークギターに興味をもち、初めて弾いたころでした。こんなに硬いスチール弦は初めてでした。クラシックのガット弦(ナイロン)やエレキのライトゲージ(細い)しか弾いた事がなかったので、フォークのミドル(普通)はきつかった。それを、いとも簡単に弾きこなす外人女子には驚いた。この頃、ギターは男のアイテムで、女子が弾き始めた初代頃だったと思う。

2010年4月4日日曜日

何故に二人はここに (Kとブルンネン)


今日もKとブルンネンだが、この曲には思い出がある。湘南に行ったときに、トランジスタ.ラジオから流れるこの曲を、その時の一日彼女がいい曲だと言った。男女3組で歩いたトリプルデートだったのだが、メンツあわせのあてがいカップルであった。友達が三人組みをナンパして、一番可愛い子とペアになり、こちらは取り巻きの娘とくっつけられたのだ。でも、性格はけっこう良い娘で、話は弾んだ気がする。友人が上手くいったら、俺たちも付き合っていたかもしれない。この曲を聞くと、あの日の会話がフラッシュバックしてくるのだ。江ノ島の古いセピアの思い出だ。

2010年4月3日土曜日

あの場所から (Kとブルンネン)

Kとブルンネンと言うデュオがいた。アメリカと言う感じではなく、ヨーロッパの若者というふたりが、外国人なまりで唄う日本語の恋の歌はヒットした。Kが外人だという確信はないが、ヒデロザのヒデにしても日本人離れした情熱的性格だし、ハーフとかクォーターが増えて日本自体が、混血状態である。甥や姪の話を聞くと、学校のクラスに一人くらいは外国の子供がいるらしい。日本も国際社会になったものだと感心するが、この曲が流れた頃は外人と日本人のハードルはもっと高かった。今は日本人より日本に詳しい外人が増えたみたいだ。タレントでも外人ハーフがいっぱいだ、もうほとんど日本人みたいなものだ。

2010年4月2日金曜日

ナオミの夢 (ヘドバとダビデ)


その頃流行ったデュオで、衝撃的だった、ヘドバとダビデ、と言う、旧約聖書にでも出て来るような名前の男女が、ナオミと言う日本的なタイトルの曲をリリースした。音響的にも、トルコの雰囲気で、アラブの盗賊を連想するスタイルをしていた気がする。もっとも、私は、中東には行った事がないので、アラビアン.ナイトとかをイメージして、勝手に解釈している訳でして、外人が日本に今でも侍がいると思ってるのと同レベルの話ではある。日本語の訳詞で、向こうにもナオミがいた事を、モデルのナオミ.キャンベルの存在で知った。

2010年4月1日木曜日

ローマの奇跡 (ヒデとロザンナ)


ヒデロザで阿吽倶流がすごくお気に入りの曲を載せておこう。和製カンツォーネといった感じの曲で、ふたりでフーガのように掛け合うところが、とってもいかしてる。ところで、ロザンナの来日秘話であるが、そこそこ有名なバンドでカサノバセッテと言うイタリヤのグループがいた。メンバーの姪だったロザンナが、ボーカル見習のような感じで来日、音楽関係者の目にとまり、当時はやりのデュオ(ふたり)の誕生となった訳らしい。聞きかじりで、詳しくは知らないけれど、その頃、日本で心細かったロザンナが、男気のあるヒデを愛さない訳がない。同性にも好かれる性格のいいヒデが、あんなに早く召されるとは、夢にも思わなかった。