2011年1月31日月曜日

黒い霧の町 (赤木圭一郎)


赤木圭一郎さんのシリーズで、’拳銃無頼帳’というのがあった。抜き打ちの竜という異名を持つ男に、しつこく付き纏うコルトのジョー(宍戸錠)、この二人の掛け合いが実に受けた。映画のワンシーンが、子供の頃のチャンバラみたいに演じられたのだ。木を削って造った拳銃を握り、ガキ大将の周りを取りかこむと、その時の台詞が、[いい加減にしないとぶっ放すぜ]、て感じかな。今では懐かしい、幼稚なゴッコ遊びだった、色んな役があったのを重い出すたび、遥か遠い記憶の中で、戻りようの無い悲しみが襲った繰るのだ。

2011年1月28日金曜日

霧笛が俺を呼んでいる (赤木圭一郎)


日活のスターといえば、忘れられないのが赤木圭一郎さんですね。不慮の事故で命を落とし、人気絶頂期にこの世を去ってしまいました。撮影所で休み時間にゴーカートに乗って、塀に激突したとかで世間を騒がせました。私はまだ子供だったけど、兄がファンで、レコードもかなりあったようです。もっとも貧乏でしたからペラペラのソノシートと言う、紙みたいなレコードでした。この歌はかなりヒットしていたので、子供ながらよく憶えています。これも夜霧が港に漂い、船乗りが出てくる映画でした。

2011年1月27日木曜日

夜霧よ今夜もありがとう(石原裕次郎)


夜霧で一番に浮ぶ曲と言ったら、勿論この曲でしょう。本当に夜霧って少なくなりましたよね、霧のロンドンなんて最近では聞きませんよね。イギリスなんかも当時は工業立国ですから、気候というのもありますが霧が出易かったのでしょうね。日活のスターである裕次郎さんだけでなく、その当時の映画にはもっぱら夜霧が出てきました。夜霧とマドロスと港に霧笛、これだけでもう映画のシーンが出来てしまうほど、夜霧は欠かせないものでした。いま再現しても意味無いのかな、周りが見えにくくなるだけで犯罪もおこりやすいですし、五里霧中は過去のもの。

2011年1月26日水曜日

夜霧の第二国道 (フランク永井)


またまた夜霧ですが、京浜国道と言うのがあります。首都高速がまだ高額で、もっぱら一般道を利用して横浜に遊びに行きました。車があってガソリンを入れて高速を使わないのは、ケチでやってる訳ではなく、一般道の景色が好きだからです。通称、第二京浜は夜霧が出るのです。それは京浜工業地帯が近いからです。汚染された空気が核になって霧になりやすいのです。ひどい時には時速20キロでも恐いくらいの霧でした。最近見なくなったのが黄色いフォグランプですね、それだけ霧が出なくなったのでしょうか。ちなみに第三京浜は有料の高速で、女性を乗せた時には利用していました。

2011年1月25日火曜日

霧にむせぶ夜 (黒木憲)


霧の話になるとやっぱり夜霧ですか。私が子供の頃には高度成長というスローガンのもとに、日本中が沸き立ち、日夜、産業の灯りが消えず、それが元でよく夜霧が発生したのです。ですから当時の曲には実に夜霧というタイトルが出てきます。実際に霧の出る日が良くありました。現代は、公害防止とか排気ガスのきれいな自動車など、環境整備が重視されているので、まず夜霧が都会に漂うなんて幻想的なシーンには出会ったことがありません。あの、霧に漂い街角でデートする恋人達は過去の遺産です。もっとも、空気がきれいになったのですから、喜ぶべきなんでしょうが、たまにはあの濃い霧が流れる都会も再現できないでしょうか。(笑)

2011年1月24日月曜日

霧のかなたに (黛ジュン)


これも黛ジュンさんの曲の思い出ですが、十代後半の頃に群馬県にある神津牧場と言うところに、従兄弟達とハイキングに行ったときの事です。その日は極端に凄い霧で、牧場のロッジから出られない状態でした。生まれてからこんな霧ははじめてです。ロッジの外で、遠くから、オーイ、と言う呼び声がしていたので、それの答えて私も冗談半分にオーイと叫んでいたら、霧の中から10人ほどのグループが現れ、お礼を言われました、道に迷ったらしいのです。そしてロッジに戻ったら、その当時全盛だったジュークボックスから、この曲が何度も流れていたのを思い出します。

2011年1月21日金曜日

恋のハレルヤ (黛ジュン)


私と同年代のアイドルで、現役歌手のひとりは彼女です。そしてこの曲は彼女のデビュー曲なのですが、この曲にも作詞秘話があるのです。勿論、これも’なかにし先生’の作品なのですが、彼女の晴れ晴れとしたフィーリングに出会い、ハレルヤと言うゴスペルなんかで使われている宗教的なフレーズが浮び、それに恋をペタリとひっつけて、切ったり張ったりと工作のように創る手法で、実験的に出来た作品だそうです。日本で言えばナムアミダブツみたいなハレルヤとか、汚い響きのある’ぶっつけた’と言う言葉が、以外と衝撃的でヒットの要因になったのかもしれません。たかが歌謡曲ですが、裏にはいろいろあるんですよ。

2011年1月20日木曜日

雲にのりたい (長山洋子)


その長山洋子さんがアイドル復帰した曲が、黛ジュンさんの唄った”雲に乗りたい”でした。この曲を補作詞したのは、わたしの心の師でもある’なかにし礼’先生です。作詞の勉強の中でもこの”雲に乗りたい”の制作秘話を聞いた事があります。補作詞を依頼され、何かフワフワした暖かそうな歌にしたい、というコンセプトの元にこの曲が発想された、そして、疲れた現代人の癒しになる音楽を見事に作り上げ、歌手を変えて二度のヒットにつなげた、なかにし先生の偉大さに感服します。当時の黛ジュンさんの歌唱も良かったですよ。

2011年1月19日水曜日

じょんから女節 (長山洋子)


彼女の変身ぶりには驚きました。その昔はポップスのアイドルで、松田聖子さんや小泉今日子さんのような存在だったのに、アイドルとしての人気が下り坂の時、突然、演歌の歌手として再デビューしたのですから。アイドルの頃でも、洋楽の”ビーナス”や一昔前のアイドルの曲をリサイクルしたりで、その異色ぶりには関心していました。ほんとうに、その七変化ぶりは、彼女の生命力を感じます。私は聖子チャン派でもキョンキョン派でもなく、そのしたたかに生きる、長山洋子の隠れファンだったのです。今は大人の女性として、良い感じで成熟した魅力を見せてくれるので嬉しいです。

2011年1月18日火曜日

津軽じょんから (細川たかし)


細川たかしさんと言えば、北海道の羊蹄山を望む、真狩村の出身なのは有名です。もともと民謡出身ですので、あの高音の冴え渡る歌唱は最高です。民謡の最高峰である”江差追分”の大会でも良い成績を収め、演歌の王者と言うよりも、日本の代表歌手と言った人ですね。あの真狩村に行きましたが、川沿いの公園に彼の銅像がありまして、すっかり観光名所になっていました。公園の入口にあるお土産屋の親父さんと、しばし話し込んだ思い出があります。お土産も、たかし煎餅とか何種類もありまして、私もひとつ買い求めたのが懐かしいです。

2011年1月17日月曜日

風雪流れ旅 (北島三郎)


津軽三味線といえば高橋竹山でしょうか。その生涯を唄った有名な歌がこの曲です。ギター弾きとしては同じ弦楽器として興味を持つのは当然なんですが、この津軽三味線は弾いた事がありません。子供の頃、家の押入れの奥に、三味線の残骸があったのを思い出します。私の祖母の物だと思いますが、祖母が三味線を弾いている姿を見た記憶がないので、若い頃に少し習った程度なのか、それとも三味線を弾くような職業をしていたのか、祖母についての情報はありません。ただ、そんなDNAがあったのは確かなようです。

2011年1月14日金曜日

帰ってこいよ (松村和子)


夕焼けといえば茜色ですよね。この茜色という色がどんな色かは、本当の所知りません。こんな色なんだろうと何となく思っているだけです。だけどこの色、明るいようで寂しい響きのある色ですよね。この曲を聴いた時、胸を締め付けられるような、寂しさを覚えた曲でした。それに、この津軽を背景にしたストーリーと、物悲しい津軽三味線の響きが、悲しい悲しいと唄っています。日本人の郷愁でしょうか、北国の悲しさというか、此れが沖縄のストーリーで沖縄の三線と言う三味線だったらどうでしょう。日本人は北が悲しいのです。オーストラリアに行けば、全ては逆転するのですがね。

2011年1月13日木曜日

七つの子 (童謡)


それから夕焼けもそうなんですが、♪カラスと一緒にかえりましょ♪から続がる、♪カラスの勝手でしょ♪ですね。何でこの曲が出てくるかと言うと、バブル景気が始まる頃、何でも有りと言う考え方が普及してきました。TV番組でもクレイジーキャッツからドリフターズに交代、子供から大人まで”8時だよ全員集合”に釘付けでした。俗悪番組と言われながら、絶大な人気を示していました。中のコントで、志村けんさんの♪カラス何故鳴くの、カラスの勝手でしょ♪と言うフレーズが大流行、そんな風潮が日本に蔓延していました。何をするにも私の勝手でしょ、という考え方が、思いやりのない最近の中年を造ったような気がします。通り魔殺人は、そんな流れで起こったような気がします。あくまで気がするだけですがね。

2011年1月12日水曜日

夕焼け小焼け (童謡)


そして、いまでも耳から離れないのが”夕焼け小焼け”です。山好きの父に連れられて、八王子の奥にハイキングした時、この曲が創られたと言う旅館の夕焼壮と言う場所で休憩をして、そこの石碑の前で、そんな話をしてくれた父を思い出します。だからと言うわけでもないのですが、何故、耳から離れないかとよくよく考えたら、この曲、毎日聴かされているんですよね。最近では夕方の4:30分になると、あの防災無線で子供に帰宅をうながしているんです。どうりで耳から離れないわけだ。むかしは冬は5:00でじたが、なんで30分早くなったのでしょうか?。

2011年1月11日火曜日

夕焼け雲 (千昌夫)


夕焼けで思うのは、20代の後半の頃にカラオケでよく唄った曲が”夕焼け雲”でした。その頃、わたしは王子という場所に勤めていました。ある事情から自動車メーカーのテストドライバーを辞め、その時のエンジンの技術を生かして圧縮機関連の仕事をしていたのです。仕事が終ると毎日が飲み会で、丁度流行りだしたカラオケなる装置が普及し始め、今では想像も付かない8トラックカセットテープと言う代物で演奏したのです。当時人気が出て来た千昌夫さんの”夕焼け雲”が丁度唄いやすかったので良く唄いました。その時の勤め先は夕焼けではなく、本当の火災で無くなりましたけれどね。

2011年1月7日金曜日

夕焼けのあいつ (泉アキ)


”恋のバイカル”に似たような旋律でこんな曲がありました。ただ、この泉アキさんは歌では一発屋みたいですが、その後の芸能界での活躍は素晴らしく、レポーターをやったりバラエティーに出演したり、そして漫才の桂高丸菊丸コンビの菊丸さんと結婚して話題になり、とても一発屋とは言えない活躍ぶりです。確か私より年上であると記憶していますが、この歌の流行った当時、夕焼に失恋というパターンが主流であった時代の、代表みたいな曲です。その後、朝焼けで別れる歌も出てきていますが、やっぱり暗い夜の前とか寒い冬の前の秋が、別れの季節として音楽を創るのに都合がいいようです。

2011年1月6日木曜日

恋のバイカル (梢みわ)ふたばひろみ


  http://www.youtube.com/watch?v=1erdxnlWXq4&feature=related
さあ今年も続けましょうか、どこまで去年は行きましたでしょうか。そうそう、ロシア民謡とか一発屋のあたりでしたね。この一曲が北国の湖を見てみたいという願望が、自分の中に湧き出したのを思い出します。ロシア民謡風で演歌も入っていて、なぜかGS(グループサウンド)の感じでもあり、その当時の流行化のいい加減さを表している曲です。彼女のその後は良く覚えていませんが、私の北国趣向の一因として懐かしく聴きました。丁寧に♪御バイカル御バイカル♪と唄っている訳ではありません、おそらく曲先で、後から詞を付けたので字余りを埋めたのでしょう。誰も居ないバイカル湖の畔をイメージします。

2011年1月1日土曜日

アフラックのお正月 (まねきねこダック)


昨年、母が亡くなったので喪中であります。したがって祝辞は控えさせていただきます。今年もよろしくお願いいたします。